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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第5章 《謎の女》

「お方さま、何を愚かなことを仰せになられまする、そのような噂、所詮は腰元どもの興味本位で囁く根も葉もないものにて、お方さまがお気に止められるほどのものではございません。このようなときこそ、お気を確かにお持ち遊ばされませ」
 泉水がキッと眦をつり上げた。
「それでは訊くが、昨夜の殿のあの到底ただごととは思えぬ深夜の外出については、何と申し開きを致す所存じゃ? あれも真は、そのお手つきの女子とやらよりの呼び出しではなかったのか? 仮にも榊原家の当主たるおん方が女に呼ばれて、真夜中に飛び出してゆかれるなぞとーお家の対面にも拘わること。それほどのことがお判りにならぬ殿ではあるまいに」
 つまりは、それほどまでに、その女に惚れている、骨抜きにされているということなのだ。
「愚かと申すのならば、そんな一大事をこれまで知らなかった私こそが愚かであった。皆はすべてを知り、当事者のこの私だけが何も知らず、知らされぬままであった。この屋敷の者どものはすべて、私を陰でさぞ浅はかな女とあざ笑うておったことであろうよ。女好きと評判の良人が側妾のみではなく、子までなしていたと、そんなことも知らぬ無知な女とー」
 考えていると、あまりの情けなさと悔しさで涙が溢れてくる。泉水は唇をきつく噛みしめた。あまりに強く噛んだため、口中に鉄錆びた血の味が苦くひろがる。
「お方さま、よくお聞きになって下さりませ。これは恐らくは何かの間違いに相違ござりませぬ。こちらの殿に限って、そのようなことをなさるはずがございませぬ。殿はお方さまただお一人をおん大切にお思い遊ばされていらせられます」
ーこれより後は泉水ただ一人を守ってゆく。
 泰雅は確かにそう言った。あの日、庭には紫陽花に変わり、芍薬が穢れなき真白な花を咲かせていた。その花を眺めながら、泰雅の誓いを心底嬉しく聞いたものだったー。
「何が、どう間違いだと申すのであろうか。私が耳にした噂では、こたびの一件は既に殿のおん母君さまがお認めになっていらっしゃるとか。今更、私などが何を申し述べたところで、事態は何も変わらぬ。もっとも、殿にお子がお生まれになるというのは、この榊原の家にとりては実にめでたきこと。私も正室として世継ぎ誕生の暁にはお祝いをお贈りせねばなるまいな」

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