胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第5章 《謎の女》
泉水は泰雅の母景容院と対面したことはない。景容院は十三年前、良人が亡くなったのを機にこの屋敷を出て、現在は町中の屋敷でひっそりと暮らしている。が、仮にも榊原家の当主の母であり、その父は先の老中水野大膳であり、母は将軍家の姫であるという高貴な生まれであった。景容院は榊原家において、いまだに隠然とした影響力を持っている。その景容院が泰雅の隠し女を認めとているというのだ。いわば、泰雅の母公認の侍妾であった。
たとえ泉水が時の権力者、辣腕の勘定奉行を父に持っているからとて、形式だけの正室であることに変わりはない。そのお飾りの正室が今更、何をどう言おうとて、何も変わりはしないのだ。いずれ、その側女が泰雅の子を生んだ暁には、正式な側室として認められ、この屋敷に迎えられることになろう。当主の子をあげたお腹さまとして奥向きでも第一の地位を揺るぎなきものにするのは明白だ。
できれば、そうなる前に、泉水はこの屋敷から去りたかった。一夫多妻が不文律であった当時、同じ邸内に妻妾が同居するのは珍しくはない。しかし、潔癖な泉水にとっては耐えがたいことであった。
それとも、やはり、そんな風に考えてしまうのは、泉水の我がままなのだろうか。正室ならば、我が心を殺し榊原の家を第一と考え、たとえ脇腹とはいえ、良人に子ができたことを歓び、その女や子どもを屋敷に快く迎えるべきなのだろうか。
「やはり、父上は私の我がままだと仰せになられるであろうかの、時橋」
泉水は淋しげに言った。清廉な人柄で知られている源太夫でさえ、側室を侍らせ、その間に一子虎松丸を儲けている。あの謹厳そのものの父でさえ、側女を持っているのだから、遊び人として名の通った泰雅にこれまで歴とした側室がいなかった方がしむろ不思議なの
かもしれない。
もっとも、父源太夫が美雪を側室としたのは、正室である泉水の母が亡くなって九年という歳月が経っており、後にも先にも父のお手つきの女は美雪一人で、その美雪とは今年の秋、祝言を挙げることになっている。女狂いとまで囁かれる泰雅の乱行とは少し違うだろう。
「お方さま」
時橋が声をかけると、泉水が微笑した。
「そうじゃ、時橋。庭の、中庭の紫陽花の花を少し伐ってきては貰えまいか」
泉水の瞼で、淡い水色の花が揺れる。
たとえ泉水が時の権力者、辣腕の勘定奉行を父に持っているからとて、形式だけの正室であることに変わりはない。そのお飾りの正室が今更、何をどう言おうとて、何も変わりはしないのだ。いずれ、その側女が泰雅の子を生んだ暁には、正式な側室として認められ、この屋敷に迎えられることになろう。当主の子をあげたお腹さまとして奥向きでも第一の地位を揺るぎなきものにするのは明白だ。
できれば、そうなる前に、泉水はこの屋敷から去りたかった。一夫多妻が不文律であった当時、同じ邸内に妻妾が同居するのは珍しくはない。しかし、潔癖な泉水にとっては耐えがたいことであった。
それとも、やはり、そんな風に考えてしまうのは、泉水の我がままなのだろうか。正室ならば、我が心を殺し榊原の家を第一と考え、たとえ脇腹とはいえ、良人に子ができたことを歓び、その女や子どもを屋敷に快く迎えるべきなのだろうか。
「やはり、父上は私の我がままだと仰せになられるであろうかの、時橋」
泉水は淋しげに言った。清廉な人柄で知られている源太夫でさえ、側室を侍らせ、その間に一子虎松丸を儲けている。あの謹厳そのものの父でさえ、側女を持っているのだから、遊び人として名の通った泰雅にこれまで歴とした側室がいなかった方がしむろ不思議なの
かもしれない。
もっとも、父源太夫が美雪を側室としたのは、正室である泉水の母が亡くなって九年という歳月が経っており、後にも先にも父のお手つきの女は美雪一人で、その美雪とは今年の秋、祝言を挙げることになっている。女狂いとまで囁かれる泰雅の乱行とは少し違うだろう。
「お方さま」
時橋が声をかけると、泉水が微笑した。
「そうじゃ、時橋。庭の、中庭の紫陽花の花を少し伐ってきては貰えまいか」
泉水の瞼で、淡い水色の花が揺れる。