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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第6章 誤解

「泉水、俺なら、お前にこんな夜遅く一人で町を歩かせるようなことはしねえ。俺は真剣だ。あいつと縁を切る気になったら、いつでも俺のところに来い。貧乏冷や飯食い、部屋住みの身ではあるが、お前のためなら、踏ん張って働く。泉水一人くらいなら、ちゃんと養ってやれるからさ」
 泉水は息を呑んだ。
 今、この男は何と言った? 何か大変な告白をされたような気がするのだけれど。
 いつしか槙野家の門が見える場所まで歩いてきていた。随分と長い刻を共にいたように思うけれど、実際にはたいした時間ではなかったようだ。
「秋月さま、私、あなたのお名前をまだお伺いしていませんでした」
 泉水が言うと、秋月は笑った。明るい、良い笑顔だ。先日のような暗い翳りは微塵もない、晴れ晴れとした笑顔であった。
「秋月兵庫之助、泉水の父上槙野さまの配下秋月兵衛の四男だ」
 秋月兵庫之助はそう応えると、立ち止まった。
「ここで良いか?」
 泉水が頷くと、兵庫之助はあっさりと背を向けた。兵庫之助が数歩あるいたところで、泉水は呼び止めた。
「あの、兵庫之助さま」
 兵庫之助の歩みが止まる。首だけ後ろにねじ曲げるようにして振り向く男に、泉水はぺこりと頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
 兵庫之助は白い歯を見せ、屈託なく笑った。また前を向いて歩き出しながら、今度は振り向かずに手だけを上げて、ひらひらと振ってよこす。
 泉水は兵庫之助の後ろ姿が暗闇に飲み込まれ、消えてゆくのをその場に佇んで見送った。
 思ったよりも悪い男ではない、いや、きっと本当は良い人なのだろうと、泉水は思った。 兵庫之助が仲間たちとつるんでしている行いは世間の迷惑になるだけのものだ。だが、恐らく、彼等には、彼等なりの鬱屈した想いがあるのだろう。
―榊原の跡取りに生まれたっただけで、ちゃっかりと当主の座におさまりやがった。
 あの科白は、勘定吟味役の家に男子として生まれながら、四番目の息子というだけで、部屋住みの身に甘んじねばならぬ兵庫之助の悲哀と口惜しさを象徴するものに相違ない。

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