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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第7章 溶けてゆく心

溶けてゆく心

 翌朝、泉水は槙野源太夫の居間で父と向かい合っていた。滝を昇る鯉が墨絵一色で描かれた勇壮な掛け軸を背にし、源太夫は苦渋に満ちた表情で懐手をしていた。
「全く、そなたはどういうつもりなのだ。急にまた戻ってきたかと思えば、理由も何も訊かずに、しばらくこの屋敷に置いて欲しいだなぞと。しかも、泰雅どのの許可も得ずして、勝手に一人婚家を飛び出すなぞ、分別ある大人のすることか? 一体、何度こんな馬鹿げた真似をしでかしたら気が済むのだ? このようなことばかり致しておっては、あちらから離縁を申し渡されても文句は言えぬのだぞ」
 泉水はうなだれたまま、両手をつかえた。
「そのことについては、異存はございません。もし泰雅さまが私を離縁なさりたいと思し召しならば、私は潔く榊原の家を去りまする」
「愚か者めが!」
 源太夫が声を荒げ、一喝した。その顔は怒りで赤くなっている。父がこれほどに怒るのを、泉水は生まれて初めて見た。幼い子頃からどんな悪戯をしでかしても、いつも穏やかに笑んでいた父であった。
「泰雅どのは、何もそのようなことは申してはおられぬ。ただ、昨夜は泉水が突如として屋敷から姿を消したとのみ知らせてこられたのだ。ゆえに、もし当家に戻ってきた際には、くれぐれもよろしくと申されておったわ。泰雅どのもおっつけ来られるであろうよ。ありがたいことだぞ、そちのように身勝手なことばかり致しておっても、何も子細を問わず迎えに来て下されるとは」
 その言葉に、泉水は力なく首を振った。
「泰雅さまがおいでになられても、私はあの方の許に帰るつもりは毛頭ございませぬ」
「何だと、今、何と申した?」
 源太夫の顔が更に朱に染まる。
「榊原の屋敷には戻らぬと申し上げました」
 泉水が昂然と顔を上げて言うと、いきなりピシャリと右頬に痛みを感じた。
「我が儘も良い加減にしなさい。いつまでも嫁ぐ前の娘のような気分でいては、泰雅どのにも直に愛想を尽かされるぞ」
 十七年間の生涯で、生まれ初めて父にぶたれたのだ。泉水はただ茫然として父を見つめた。
 源太夫はといえば、打たれた泉水よりもこちらの方が痛みを感じるような顔で娘を見返している。

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