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胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】

第7章 溶けてゆく心

「もう、遅いのです」
 泉水はその場にくずおれ、泣き伏した。
 頬よりも心が痛い。心から信じていた泰雅に裏切られた心の傷の方がはるかに深く、痛かった。
「泉水、一体、何があったというのだ? わしは、そなたが幼少の砌からずっと思っておった。そなたは多少破天荒、その天真爛漫さで周囲を振り回すきらいはあるが、けして愚かな姫ではない。そのそなたがなにゆえ、このような馬鹿げたふるまいをしたのか、わしはその真の理由を知りたい。悪しきようにはせぬゆえ、この父には本当のことを話してはくれぬか」
 諄々と諭す父の前では、泉水はひとたまりもない。泉水は涙ながらに、これまでの経緯を話した。
 ここ半月ばかりの間、泰雅が夕刻になると、出かけてばかりいることから始め、泰雅にお手つきの側女がいて、その側女が泰雅の母景容院の屋敷に匿われていること、そして、つい先頃、ひそかに泰雅の子を生んだことまでをかいつまんで話した。
 源太夫はしばらく声がなかった。
 それは衝撃を受けたというよりは、じっくりと事の真偽を見極めているような顔つきである。
「信じられんな。確かに以前の泰雅どのならば、あり得ぬ話ではないが」
 源太夫は呟くと、うーむと唸った。
 流石の頭脳明晰な勘定奉行も、こと娘のこととなると、大いに私情が入ってくるため、冷静に物事を考えられなくなる。
 源太夫は懐手をしたまま、眼をつぶり、ひとしきり思案に耽った。
 ふた月前、これと似たようなことがあった。榊原家に輿入れした泉水が突然、実家に舞い戻ってきたのである。あの時、迎えにきた泰雅はこの部屋で源太夫の前で手を付いたのだ。
ーこれからは姫一人を守り通して、終生大切に致しまする。ご息女を必ずや幸せにします。
 そう、きっぱりと言い切ったのだ。はきと言葉にはしなかったけれど、あの科白の裏には、これより後はきっぱりと女遊びは止めるという意味が言外に含まれていた。
 あのときの泰雅の真剣さは、けして見せかけいっときのものではなかった。源太夫は勘定奉行を務めるまでは北町奉行を務めたこともある。その間、多くの人々を見てきた。白州で沙汰を下しても、本当にこれで良かったのかと後々まで悩んだこともある。

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