テキストサイズ

淫らな死体~お嬢さま春泉の秘密~④

第14章 月下の真実

「な、俺と行こう。兄貴のことなんか、俺が忘れさせてやる。俺は男に戻って、春泉を嫁さんにする。誰も俺たちを知らない人たちしかいないところで、夫婦になって暮らすんだ」
 さあ、この手を取って。
 蠱惑的な瞳と声がしきりに囁く。
 春泉はふいにクラリと軽い眩暈を憶えた。
 そう、私は確かに、これと同じ科白を聞いたことがある。
 彼女の耳奥でありありと甦る、声。
 二人だけで暮らそうと言った男に、春泉がどこへゆくのと訊いたら、こう応えたのだ。
―ここじゃないどこかへ。
 そして、あの男も今の香月のように春泉に手を差しのべた。
―俺と一緒に来い。
 でも、四年前のあの時、春泉はあの男―光王の手を取らなかった。
「春泉、俺と一緒に行こう」
 もう一度、熱く濡れた声で囁かれる。
 駄目、止めて。
 春泉は無意識の中に、一歩後ろへと下がった。
 今、心が折れてしまいそうなこの時にそんな優しいことを言われたら、私はこの手を、差し出された手を取ってしまう。
 本当は秀龍さまの傍にいたいのに。
 私が恋い慕っているのは、秀龍さま一人なのに。
 哀しさと淋しさに負けて、秀龍さまではない誰か別の男の手を取ってしまいそうになる。
「な、春泉」
 深い声が甘やかな誘惑の言葉を紡ぐ。
 春泉は思わず眼の前の手を取った。
 ね、光王。私はあの時、あなたの手を取るべきではなかったのかしら。
 あの時、あなたに付いていっていたら、ここんなに哀しまずに済んだのに、淋しい想いをせずに済んだのに。
 温かな手が春泉の手を取り、もう一方の手が彼女の腰に回される。
 次の瞬間、春泉はハッと我に返った。
 春泉は強い力で引き寄せられ、誰かが彼女の唇に唇を重ねようとしている―。
 違う、この男は秀龍さまではない。
 間近に迫る顔をはっきりと認識した刹那、春泉は悲鳴を上げて、自分を抱く相手の身体を両手で力を込めて突き飛ばした。
「何をするのですか!?」
 そう叫んだ途端、烈しい吐き気が胃の腑の奥からせり上がってきて、春泉はその場にくずおれた。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ