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偽装結婚~代理花嫁の恋~

第6章 ★Sadness~哀しみ~★

 母の健康よりも自分の幸せを追求してしまう自分は親不孝な娘に違いない。由梨亜は、すっかり自己嫌悪に陥った。沈んだ気持ちで病院を後にし、気がつけば、元の職場―S物産の近くまで来ていた。
 自分でもどこをどう歩いたのか判らない。よほど母の退院が早まったことで動揺していのだろう。
 ここで引き返しても良かった―というより、むしろ引き返すべきだったのかもしれない。しかし、由梨亜はふと古巣ともいえるかつての勤務先をひとめ見てみたいと思った。
 少し離れた場所からS物産の建物を見るくらいなら、構いはしないだろう。同僚や後輩たちに見つかる可能性もゼロに等しい。
 由梨亜は意を決して歩き始めた。十分ほど歩いている中に、懐かしいビルが見えてきた。クビにされた当初はもう二度と見たくはない、こんなところに来てやるもんかと捨て鉢な気持ちで思ったが、今はもう懐かしさの方が先に立っている。
 たかだか二ヶ月足らずの中に人の気持ちはこんなにも変わるものかとしみじみと思った。いや、気持ちだけではない、この二ヶ月足らずの間に、由梨亜は一生分に匹敵する出来事を経験したではないか。偽装上とはいえ、広澤三鷹と結婚し、彼に恋をして、結ばれた。
 人生なんて、本当にいつ何があるか判らない。だから、がっかりもするけれど、わくわくもする。
 三鷹と過ごせるのも、あと二週間。恐らく、これからの二週間は一日一日が十年分にも相当する貴重なものになるはずだ。今はつまらない感傷や物想いに囚われているときではない。残り少ない彼との日々を精一杯、充実させたものにしよう。
 由梨亜が溢れた涙を指でぬぐったときのことである。S物産の本社社屋である超高層ビルの玄関扉が開いた。由梨亜が立つ場所はビルからものの数十メートルと離れてはいない。しかし、ビルの両隣はホカ弁屋や書店、コンビニなど雑多な店が居並んでおり、隠れ場所は幾らでもあった。
 由梨亜は今、ビルから店一つを隔てた書店の軒先にいた。表に平積みされている新刊雑誌を手に取り、読むふりをしながらビルの方を窺っていた。
 何げなくそちらを見て、由梨亜は驚愕した。いや、そんな生易しいものではなく、氷塊を背中に入れられたような寒々とした気分になった。

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