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偽装結婚~代理花嫁の恋~

第6章 ★Sadness~哀しみ~★

 冷静で、どんなときでも感情に流されない。そう噂される男は力強く孤独で、自信に溢れて見えた。大勢の部下を従えた三鷹は副社長の威厳を漂わせ、圧倒的な存在感を発していた。ひたすら前だけを見つめるその厳しいまなざしには、ひとかけらの感情も浮かんではいなかった。
 だが、今、眼の前にいる男はどうだろう。感情豊かに表すその瞳は人間らしい温かみと光を宿している。ここにいるのは、伝説のやり手青年実業家ではなく、どこにでもいる傷つきやすく脆い若者だ。
 この違いは何を意味しているのか。いつも彼が由梨亜に見せる顔と副社長としての顔は、あまりにも違いすぎる。
 その違いを見せつけられたときの由梨亜の衝撃は生半ではなかった。あたかも広澤三鷹という人間が器だけはそのままに中身―精神(こころ)がまるごと入れ替わってしまって、別の人間になってしまったかのように見えた。
 恐らく、感情を感じさせない冷たい仮面の下で、三鷹もまた孤独や空しさを感じているのだろう。もしかしたら、明るくて淋しがりやの彼の方がより素顔に近いのかもしれない。本当の彼は感情豊かな人間みのある男だ。
 所有欲を剥き出しにして安浦医師に食ってかかっていた三鷹が何よりもそのことを物語っている。まるで、自分の縄張りを侵そうとするものに対して、牙をむき出して飛びかかろうとする狼そのものだった。
 刹那、こんなときなのに、由梨亜は奥底から込み上げてくる歓びに心が打ち震えるのを自覚した。
 三鷹はこれまで何度も〝好きだ〟と熱く囁いてきた。恐らく、その言葉にも気持ちにも嘘偽りはないのだろう。 
 だが、と、冷静な自分が有頂天になっている自分に冷淡に告げる。 
 三鷹は決定的な過ちを犯した。それは、裏切りという名の失敗だ。彼は由梨亜を騙したのだ。これ以上はないというくらいに、残酷なやり方で。
 由梨亜は彼を信頼することができない。そんな男をと、どうして長い人生を共にやってゆけると考えられるだろう?
 そこまで思い至り、由梨亜の歓びは急速に萎んだ。
「百歩譲って、あなたの私への気持ちが真実だとしても、いずれ冷めるときは必ず来る」
 由梨亜は真っすぐ三鷹を見つめ、決めつけるように言った。

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