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偽装結婚~代理花嫁の恋~

第1章 ★ 突然の辞職勧告 ★

 思えば、浩二は立ち回りが上手かった。会社を辞めたのも何も由梨亜のように〝無能〟のハンコを押されたわけではなく、自分から率先して辞めたのである。ちょうどその頃、首切り対策としてはお決まりの〝今、自分から願い出て退職すれば、退職金を何パーセントか上乗せしてあげます〟という告示が出ていた。
 浩二は名乗り出て自ら退社し、退職金で小さな会社を設立した。何でも広告代理店らしい。経営は順調なようで、時折気まぐれに届くメールでは、仕事の話ばかりだった。だから、浩二の周囲に女性の影があるなんて考えもしなかった。
 同じ会社にいた頃は、どちらからともなく誘い合わせてデート―少なくとも由梨亜はそう思っていた―したのに、去年の秋に浩二が会社を辞めてからというもの、一度も逢うことはなかった。それも悪かったのだろうか。
 新しい彼女というのは、どうやら浩二が設立した会社の事務の女の子らしい。だが、浩二の恋バナなんて今更、聞きたくもないし聞く気もない。
 恋も仕事も失った。もう、怖いものなんて、ありはしない。由梨亜は空を仰ぎ、二、三度、眼をしばたたいた。湖のように蒼く澄んだ空に、ひとすじだけ刷毛で描いたようなちぎれ雲が浮かんでいる。
 梅雨の狭間の空はどこまでも澄み渡っていている。まるで、由梨亜の心など知らぬように。営業部にある細々とした荷物は既に箱にひと纏めにしてきた。明日にでも恥を忍んで取りに来れば良い。
 もっとも、この不景気なご時世だ。突然、部長室に呼ばれ退職を言い渡されるのは何も由梨亜一人に限ったことではない。今日の他人の不幸は、明日は我が身になるかもしれない。だから、由梨亜の不幸に同情する人間はいても、良い気味だと思う者はいないだろう。
 事実、由梨亜もつい昨日までは、退職勧告を受けた社員を気の毒だと思いながら見送っていた側の人間だったのだ。
 幸福と不幸は常に隣り合わせ。
 そんなタイトルのエッセイを誰か有名な女流作家が書いていたはずだが、作家名が思い出せない。

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