偽装結婚~代理花嫁の恋~
第1章 ★ 突然の辞職勧告 ★
由梨亜は小さく首を振り、たった今、出てきたばかりの会社を振り返った。小さな町には似つかわしくない十二階建ての近代的なビル。この会社にももう二度と社員として来ることはないだろう。あまり良い想い出もない代わりに、特別に嫌な想い出もない。むしろ、由梨亜の一人合点だったにせよ、浩二との淡い恋の想い出のより所となるのは、この会社で過ごした五年間だった。
由梨亜が大学で専攻したのは国文科で、営業とは何の関係もない学部学科だけれど、頑張れば努力が売り上げに結びつくという手応えを感じられ、由梨亜なりにやり甲斐を感じていたことも確かだった。
もちろん、すべての努力がすぐに結果に繋がるというわけではない。その度に、浩二と額を寄せ合って話し合い、問題点を探り解決策を出し合った。でも、それもすべて済んだ話、過去の出来事だ。
いつまでも過去に拘っていても仕方ない。これからは前を見て歩いてゆかなければ。割り切りの良いのだけが取り柄だと自他共に認めているところであるが、流石に今回はなかなか立ち直れそうにもない。
由梨亜の側をふいに少し強い風が駆け抜けていった。台風三号の影響で昼過ぎから風が出てきたようだ。風は由梨亜のショートボブの髪を揺らし、気まぐれに通り過ぎていった。
その時、何気なく前方に向けていた彼女の視線が小さな建物を捉えた。会社からほど近い小さな喫茶店は、浩二と二度だけ訪れたことがある。一度目はお茶だけ、二度めは雰囲気も味も良かったからとランチをしに。
煉瓦の壁に蔦の絡まる瀟洒な外装は、ちょっと見にはアンデルセン辺りの童話にでも出てきそうなノスタルジックな感じである。真正面には可愛らしい鈴が取り付けられていて、客が扉を押す度にチリチリと愛らしい澄んだ音を立てるのだ。
扉の側に何やら小さな紙が貼ってあった。
自慢ではないが、由梨亜は視力だけは良い。小学生のときから両眼とも裸眼で1.5より下がったことがない。その自慢の視力なら、あの張り紙に書いてある字も余裕で読める。
「模擬―」
小さく声に出して読みかけたその瞬間。
先刻より更に強い風が吹き抜ける。
風は壁の張り紙を巻き上げ、剝がれた紙は空高く舞い上がる。
「あー」
声を上げる間もなく、その紙片は由梨亜の足許に舞い落ちてきた。
由梨亜が大学で専攻したのは国文科で、営業とは何の関係もない学部学科だけれど、頑張れば努力が売り上げに結びつくという手応えを感じられ、由梨亜なりにやり甲斐を感じていたことも確かだった。
もちろん、すべての努力がすぐに結果に繋がるというわけではない。その度に、浩二と額を寄せ合って話し合い、問題点を探り解決策を出し合った。でも、それもすべて済んだ話、過去の出来事だ。
いつまでも過去に拘っていても仕方ない。これからは前を見て歩いてゆかなければ。割り切りの良いのだけが取り柄だと自他共に認めているところであるが、流石に今回はなかなか立ち直れそうにもない。
由梨亜の側をふいに少し強い風が駆け抜けていった。台風三号の影響で昼過ぎから風が出てきたようだ。風は由梨亜のショートボブの髪を揺らし、気まぐれに通り過ぎていった。
その時、何気なく前方に向けていた彼女の視線が小さな建物を捉えた。会社からほど近い小さな喫茶店は、浩二と二度だけ訪れたことがある。一度目はお茶だけ、二度めは雰囲気も味も良かったからとランチをしに。
煉瓦の壁に蔦の絡まる瀟洒な外装は、ちょっと見にはアンデルセン辺りの童話にでも出てきそうなノスタルジックな感じである。真正面には可愛らしい鈴が取り付けられていて、客が扉を押す度にチリチリと愛らしい澄んだ音を立てるのだ。
扉の側に何やら小さな紙が貼ってあった。
自慢ではないが、由梨亜は視力だけは良い。小学生のときから両眼とも裸眼で1.5より下がったことがない。その自慢の視力なら、あの張り紙に書いてある字も余裕で読める。
「模擬―」
小さく声に出して読みかけたその瞬間。
先刻より更に強い風が吹き抜ける。
風は壁の張り紙を巻き上げ、剝がれた紙は空高く舞い上がる。
「あー」
声を上げる間もなく、その紙片は由梨亜の足許に舞い落ちてきた。