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偽装結婚~代理花嫁の恋~

第5章 ★ 逢瀬 ★

背の高い安浦医師がまるで犬か猫の子のように襟首を掴まれているのは、どう見ても体裁の良いものではなかった。
「三鷹さんッ、止めて。お願いだから、止めてよ。その人は私の母の主治医なの。今も母のことについて色々と教えて頂いていたの。それだけだから」
 由梨亜が縋るように言うと、三鷹が鼻を鳴らした。
「フン、手前の方こそ、主治医という立場をひけらかして、患者の娘に関係を持つように強要してるんじゃないのか、え、気取り返った先生さま」
「な、なっ」
 安浦医師の顔が引きつっている。冗談ではなく、このまま心臓発作でも起こしかねないほど頭に血が上っているようだ。エリート医師として出世コースを順調に歩いてきた彼のような男には、こんなあからさまな侮辱は到底、受けたこともなく、堪えられないものなのだろう。
 三鷹は舌打ちして、安浦医師から手を放した。安浦医師は血の気の引いた顔を強ばらせ、その場に突っ立っている。
「安浦先生。本当に申し訳ありませんでした。主人には後でちゃんと言って聞かせますので」
 由梨亜は三鷹を引っ張るようにして、喫茶店から出た。
「何で、あんな失礼なことを言ったの?」
 由梨亜は眼に涙を滲ませて言った。
「あの人は母の担当医よ。こんな揉め事があって、母の治療に影響が出たら、どうするの?」
 今日の三鷹への態度を見れば、人間的にはあまり好ましいとはいえないが、医師としては優秀だし評判も悪くない。今日の出来事で、安浦医師が母の担当を外れると言い出すことも考えられた。
「悪かった、由梨亜ちゃん。けど、俺、あの気障野郎が由梨亜ちゃんに、にやけた顔で迫ってるのを見たら、もう我慢できなくなったんだ」
 三鷹は心底、申し訳なさそうにうなだれた。
「三鷹さんはいつも自分のことしか考えないのね。安浦先生は別に私に迫ったりはしていなかったのよ。ただ最後に食事に誘われただけ。なのに、一方的に先生を責めて、怒らせて」
「だから、ごめん」
「もう、良い」
 由梨亜は情けなくて、泣けてきた。

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