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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第1章 第一話 春に降る雪  其の壱

 もちろん、現実には、そう甘くはないことも知っている。親の言うがままに嫁がねばならないのが当たり前の時代、生涯を連れ添う伴侶の顔を初めて見るのは祝言を挙げた後―、即ち初夜の床においてであったというのは、ごく自然なことだ。
 そんな時代に、しかもその日暮らしの裏店育ちの娘が惚れた男と添い遂げたいと考える方がおかしいのかもしれない。それでも。
 父弥助の死後もずっと独り身を通すおれんの姿に、美空はある種の感動すら憶えずにはいられなかった。おれんが他の男と所帯を持つことに、美空は何の不満もなかった。
 第一、父とおれんが所帯を持つというのは口約束の上でのことにすぎないのだし、そんなおれんに対して、美空が何を期待することもできないし、ましてや、おれんの今後の生き方に口を挟むことなぞ許されるはずもない。
 しかし、現実として、おれんはいまだに男を寄せつけず、迫ってくる男たちを適当にあしらいながら女一人で店を切り盛りしている。寡黙であった父に似て、おれんもまた、愛想は悪くないけれど、けしてお喋りな女ではない。
 ゆえに、おれんの今の気持ちを推し量るすべもないが、毅然として現実に立ち向かうその姿には、今も変わらぬ父への思慕がその心の底に流れているように思えた。大勢の男たちに囲まれ熱い視線を集めながらも凜として誰にもなびこうとはせぬその生き方は、さながら前を向いてのびやかに咲く一輪の花を彷彿とさせる。
 共に口数も少ない朴訥な二人ではあっても、確かに二人の間には余人の立ち入る隙のない絆があったのだと、美空は改めて思うのだった。そして、けして長くはなかった父の人生に彩りを与えてくれた女に対して、娘として心からの感謝の念を抱くのである。
 晩秋のある日、美空の前にふいに出現した男の影は日が経つにつれ、次第に薄れてゆくようにも思えた。いつまでも浪速屋誠志郎の世話になり続けることにも心苦しさがある。
 誠志郎は公私混同するような男ではない。美空が仕立てた着物に対しても、出来具合については逐一、細部まで検めたし、その逆に仕事を紹介することで特に恩着せがましい態度を取ったりはしない。
 あくまで、呉服太物問屋の主人と一人のお針子という関係を保っていた。その人柄は、美空に求愛していたときの誠志郎の節度あるふるまいを見ても判ることだ。

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