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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第1章 第一話 春に降る雪  其の壱

 それでも、いかにも大店の主人風の男が年頃の娘の一人住まいに繁く顔を見せれば、忽ち長屋中の噂になる。美空から申し出を受けられないと言われ、誠志郎があっさりと退いたのも、そんな心ない噂がこれ以上ひろがらぬようにとの心遣いもあった。
―あの娘には浪速屋の主人の手が付いている。
 無用な噂が立てば、美空の将来の障りになることは明らかだ。
 求愛を退けられてからも、誠志郎は、美空に定期的に仕立物の内職を回してくれるし、そんな経緯があったことなぞなかったような顔をしている。そういう鷹揚な態度を見ていると、誠志郎がつくづく大人の男なのだとその度量の大きさを感じた。
 しかしながら、誠志郎が何もなかったかのようにさりげなく接してくれればくれほど、美空は余計にその優しさに甘えられないと思うのだった。
 誠志郎にその胸の内を告げなければならないと思いながらも、なかなか言い出せないでいたある日。
 誠志郎が昼過ぎに思い出したように顔を見せた。お茶を出そうとする美空に、誠志郎は首を振り、困ったことはないかと訊く。
 この男の態度は、求婚を断った後でも少しも変わらない。そんな誠志郎だからこそ、このまま親切に甘えてばかりいられない―、このままでは、あまりに図々しいと思い切って言わずにはいられなかった。
―ごめんなさい。浪速屋さんから仕事を紹介して頂くのも、もうこれきりにしようと思うんです。
 誠志郎は少し愕いたような表情であったが、やがて穏やかに問うた。
―所帯を持ってくれないかという私の申し出を断ったから、そのことをいまだに気にしているのかい?
 静かな声音には微塵も責めるような響きはなく、美空は、その男の優しさがかえって辛かった。
―ごめんなさい。今まで本当に色々と良くして頂いたのに、ご恩を仇で返すようなことになっちまって。
 心から申し訳なくて、頭を下げて詫びの言葉を繰り返すと、誠志郎は優しい微笑を浮かべた。

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