
激愛~たとえ実らない恋だとしても~
第6章 第二話・其の弐
「だが、俊昭との間が気まずくなってしもうたのも、すべては俺が悪いのだ」
孝俊は淡々と語った。
江戸の上屋敷で辛い幼少時代を過ごした孝俊は十二の春、国許に戻った。というよりは、体の良い厄介払いであったといえよう。当時はまだ藩主夫人であった宥松院が良人孝信に孝俊(当時は幼名孝太郎を名乗っていた)を国許に戻すように勧めたゆえである。
孝俊はむしろ歓んで父の命に従った。義母に心ない罵詈雑言を投げつけられ、冷たく当たられる日々には辟易していたから、国許に帰れと言われたのは孝俊にとっては渡りに舟であった。
―国許に戻り、次代の藩政を担うために見聞をひろげ、更に修練を積むように。そのためには今から国許を見ておくのも悪くはなかろう。
孝俊が誕生したのは尾張藩の居城名古屋城においてである。その翌年、幼名孝太郎は江戸に下向し、尾張藩上屋敷で暮らすようになった。生母が亡くなり、正室に引き取られるためであった。以来、孝俊は生まれ故郷に一度として戻ってしなかった。久方ぶりに眼にする故郷に憧れと希望を抱き、少年は国許に戻った。
―自分も父上のお役に立ちたい。兄上をお助けして、藩のために身命を賭して働きたい。
しかし、その夢もすべては無惨に潰えることになる。国許には冷たい義母はいなかったが、周囲の彼を見る眼はけして好意的なものではなかった。孝俊の生母おゆりの方しか愛妾を持たなかった孝信には嫡男高晴、次男孝俊の二人の息子しかいなかったのである。
が、摂関家の出である正室腹の高晴にひきかえ、孝俊は〝お湯殿の御子〟と呼ばれた脇腹であった。それも一歳から十二までを江戸で過ごした孝俊である。後ろ盾となる家臣もなく、孝俊は尾張に帰っても孤独だった。
そんな周囲に反発し、孝俊は十六で尾張を飛び出した。その後、江戸に舞い戻り、小間物売りの孝太郎としての日々が始まったのである。
「城を飛び出した時、俺は気儘な次男坊にすぎなかった。まさか、その五年後に世継の兄上が亡くなられ、俺が嫡子の座につくことになるとは考えもしなかった。それこそ、何かの悪い冗談だとしか思えなかった。思えば、俊昭との間に見えない壁ができたのは、その頃だろう」
孝俊は淡々と語った。
江戸の上屋敷で辛い幼少時代を過ごした孝俊は十二の春、国許に戻った。というよりは、体の良い厄介払いであったといえよう。当時はまだ藩主夫人であった宥松院が良人孝信に孝俊(当時は幼名孝太郎を名乗っていた)を国許に戻すように勧めたゆえである。
孝俊はむしろ歓んで父の命に従った。義母に心ない罵詈雑言を投げつけられ、冷たく当たられる日々には辟易していたから、国許に帰れと言われたのは孝俊にとっては渡りに舟であった。
―国許に戻り、次代の藩政を担うために見聞をひろげ、更に修練を積むように。そのためには今から国許を見ておくのも悪くはなかろう。
孝俊が誕生したのは尾張藩の居城名古屋城においてである。その翌年、幼名孝太郎は江戸に下向し、尾張藩上屋敷で暮らすようになった。生母が亡くなり、正室に引き取られるためであった。以来、孝俊は生まれ故郷に一度として戻ってしなかった。久方ぶりに眼にする故郷に憧れと希望を抱き、少年は国許に戻った。
―自分も父上のお役に立ちたい。兄上をお助けして、藩のために身命を賭して働きたい。
しかし、その夢もすべては無惨に潰えることになる。国許には冷たい義母はいなかったが、周囲の彼を見る眼はけして好意的なものではなかった。孝俊の生母おゆりの方しか愛妾を持たなかった孝信には嫡男高晴、次男孝俊の二人の息子しかいなかったのである。
が、摂関家の出である正室腹の高晴にひきかえ、孝俊は〝お湯殿の御子〟と呼ばれた脇腹であった。それも一歳から十二までを江戸で過ごした孝俊である。後ろ盾となる家臣もなく、孝俊は尾張に帰っても孤独だった。
そんな周囲に反発し、孝俊は十六で尾張を飛び出した。その後、江戸に舞い戻り、小間物売りの孝太郎としての日々が始まったのである。
「城を飛び出した時、俺は気儘な次男坊にすぎなかった。まさか、その五年後に世継の兄上が亡くなられ、俺が嫡子の座につくことになるとは考えもしなかった。それこそ、何かの悪い冗談だとしか思えなかった。思えば、俊昭との間に見えない壁ができたのは、その頃だろう」
