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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第9章 第三話〝細氷(さいひょう)〟・其の壱

 やはり、孝俊と我が身では住む世界が違うのだろうか。生まれ育った身分の差が自分たち夫婦をこうまで隔ててしまったのかと思えば、泣きたくなってくる。江戸の下町の長屋で生まれ育った職人の娘と、尾張藩の若さまの恋。誰が考えても、到底実るはずのない恋が実ったことが美空にとっても、孝俊にとっても幸せなことだったのかどうか。
 好いた惚れたですべてが解決していた蜜月の頃はとうに過ぎ去り、今や孝俊は尾張藩主という重責にあり、美空はご簾中さまと呼ばれる尾張藩主の正室だ。美空は世継の徳千代、並びに次男孝次郞の生母としての立場もある。昔、徳平店で暮らしていた頃のような小間物屋の若夫婦ではない。あの頃であれば許された些細な夫婦喧嘩も今は、ただの痴話喧嘩では済まないというのが現実であった。
 何を言っても、藩主、ご簾中という立場がついて回り、迂闊に喋ることもできない。
 いや、この頃では、二人で軽口を言い合うことすら無くなってしまった。孝俊が藩主になりたての頃には、二人でよく冗談を言い合ていたこともあったのに。
 あの時代が懐かしい。美空は最近、徳平店で暮らしていた時分をしきりに思い出す。大工の女房お民のいかにも人の好さそうな笑顔、お民に説教ばかりされていた左官の源治の困ったような表情が懐かしく甦ってくる。
―徳平店に帰りたい。
 寝覚めの夢に見るのは、まだ孝俊がただの小間物売りの孝太郎だと信じ切っていた頃、祝言を挙げてまもない頃の自分たちであった。身を綺羅で飾ることは叶わずとも、あの頃はささやかな幸せがあった。夫婦が寄り添い合い、何でも話せて笑いが絶えない家庭だった。
 あのまま、自分たちの暮らしはずっと続いてゆくものだとばかり思っていたのに、孝太郎が思いもかけず尾張藩の嫡子であったことから、美空の運命の歯車は意外な方向へと回り出したのだ。裏店住まいの小間物売りの女房が一躍、尾張藩主の妻へと。

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