
激愛~たとえ実らない恋だとしても~
第9章 第三話〝細氷(さいひょう)〟・其の壱
かつて孝俊が小間物売りの孝太郎だと信じていた頃、美空は確かに幸せだったのだ。その日を暮らしてゆくのがやっとでも、何とか夫婦二人が力を合わせれば生活は成り立っていた。恐らく、美空には、そんな裏店暮らしが根っから性に合っていたに相違ない。
孝俊の傍にいつまでもいたい、惚れた男の傍こそが自分の居場所なのだと思い、孝俊に付いて新しい世界に飛び込んだのだ。尾張藩主の正室として尾張藩上屋敷へ迎えられ、〝ご簾中さま〟と崇められる身分になったものの、三年経った今でも、そんな風に呼ばれることに居たたまれなさを憶えてしまう。
孝俊の背中越しに、初夏の庭がひろがっている。水無月の初旬とて、庭には紫陽花の茂みが緑の葉も鮮やかに、白や紫、蒼の色とりどりの花がその場に華やぎを添えている。まだ梅雨入りも前のことなので、花の色はさほどに深くはなかった。これから梅雨に入れば、ひと雨毎に、紫陽花はその花の色をうつろわせ、深めてゆくのだ。
美空は、いまだ淡い蒼色をとどめる円い花を眺めながら、ぼんやりと考えた。
うつろうのは花の色、けれど、うつろいやすいのは花だけではなく、人の心も同じだ。
孝俊と美空の心もまた、雨に打たれたこの花たちのように、色褪せ変わってゆこうとしているのではないか。
そう思うと、知らぬ間に涙が込み上げてきて、美空は慌てて眼をまたたかせ、眼の裏で涙を乾かした。
「何でもない」
その場に下りた重い静寂を破るかのように、孝俊の声が突如として響く。
物想いに沈んでいた美空はハッと我に返り、面を上げた。
美空が問いを投げかけてから、既に随分と時間が経っていたにも拘わらず、いきなり良人が口にした応えはいささか場違いのようにも思えたけれど―、美空はそんな気持ちは微塵も出さず、微笑む。
「さようにございますか、それならば、よろしうございます。私の気にしすぎでございましょう。つかぬことを申し上げ、お許し下さりませ」
が、何でもないと言う言葉とは裏腹に、孝俊の端整な横顔はこれ以上ないというほどの濃い翳りに覆われていた。そのまなざしは虚ろで、あたかも心ここにあらずといった感じだ。
孝俊の傍にいつまでもいたい、惚れた男の傍こそが自分の居場所なのだと思い、孝俊に付いて新しい世界に飛び込んだのだ。尾張藩主の正室として尾張藩上屋敷へ迎えられ、〝ご簾中さま〟と崇められる身分になったものの、三年経った今でも、そんな風に呼ばれることに居たたまれなさを憶えてしまう。
孝俊の背中越しに、初夏の庭がひろがっている。水無月の初旬とて、庭には紫陽花の茂みが緑の葉も鮮やかに、白や紫、蒼の色とりどりの花がその場に華やぎを添えている。まだ梅雨入りも前のことなので、花の色はさほどに深くはなかった。これから梅雨に入れば、ひと雨毎に、紫陽花はその花の色をうつろわせ、深めてゆくのだ。
美空は、いまだ淡い蒼色をとどめる円い花を眺めながら、ぼんやりと考えた。
うつろうのは花の色、けれど、うつろいやすいのは花だけではなく、人の心も同じだ。
孝俊と美空の心もまた、雨に打たれたこの花たちのように、色褪せ変わってゆこうとしているのではないか。
そう思うと、知らぬ間に涙が込み上げてきて、美空は慌てて眼をまたたかせ、眼の裏で涙を乾かした。
「何でもない」
その場に下りた重い静寂を破るかのように、孝俊の声が突如として響く。
物想いに沈んでいた美空はハッと我に返り、面を上げた。
美空が問いを投げかけてから、既に随分と時間が経っていたにも拘わらず、いきなり良人が口にした応えはいささか場違いのようにも思えたけれど―、美空はそんな気持ちは微塵も出さず、微笑む。
「さようにございますか、それならば、よろしうございます。私の気にしすぎでございましょう。つかぬことを申し上げ、お許し下さりませ」
が、何でもないと言う言葉とは裏腹に、孝俊の端整な横顔はこれ以上ないというほどの濃い翳りに覆われていた。そのまなざしは虚ろで、あたかも心ここにあらずといった感じだ。
