
激愛~たとえ実らない恋だとしても~
第9章 第三話〝細氷(さいひょう)〟・其の壱
孝俊がこんな翳りのある表情を見せるようになったのは、一体いつの頃からであったのだろうか。そんなことを軽い現実逃避で考えていた美空の意識は、孝俊の不気味な笑い声で再び現実に返ってくる。
気が付けば、孝俊が低い声で笑っている。
「殿?」
その地を這うような笑い声は、孝俊らしくないどころか、およそ常軌を逸したものを感じずにはおられない。
美空は俄に胸騒ぎを憶え、良人の顔を不安げに見つめた。
「どうした、俺はそんなにこの世の終わりとでも言いたげな顔をしているか?」
その言葉に、美空は返答に窮する。
短い、先刻よりも更に気詰まりな沈黙の後、孝俊が真っすぐに美空を見つめた。
「その顔では、どうやら図星だな」
孝俊は昏(くら)い笑いを収めると、美空を真正面から見据えながら言った。
「そなたは昔から嘘をつくのが下手だ。いまだに考えておることがそっくりそのまま顔に出るところは昔と変わらぬな」
孝俊の視線がふっと美空から逸れる。そのまなざしはまた庭に向けられ、紫陽花の群れ咲く辺りを彷徨う。
「その正直さが俺は心底、羨ましい。いや、そなたのその変わらぬところが羨ましいのかな。そなたはたとえどこにあろうと、少しも変わらぬ。市井にても、この上屋敷においても、変わらぬ花を咲かせている。俺は真を申せば、そんなそなたに少しばかり妬ましさを感じておるのやもしれぬ」
予期せぬ良人の心情の吐露に、美空は言葉を失う。今の述懐は果たして賞められているのか、その逆なのか、判断に苦しむところだ。
「殿、私は裏店で生まれ育った者にございます。思いもかけず尾張藩の上屋敷でこうして暮らすような身となり、殿に相応しき妻であろうと日々、努力致して参りましたれど、やはり生まれ育ちは変えられませぬ。それゆえ、殿にご迷惑をおかけして―」
美空は、孝俊から初めて恋心を打ち明けられたときのことを思った。もう三年、いや、四年近くも前のことになるけれど、あの日、孝俊は美空に万葉集の中の一首を示し、その和歌に託して自分の恋情を美空に伝えたのだ。
―玉ゆらに 昨日の夕見しものを 今日の朝に恋ふべきものか
気が付けば、孝俊が低い声で笑っている。
「殿?」
その地を這うような笑い声は、孝俊らしくないどころか、およそ常軌を逸したものを感じずにはおられない。
美空は俄に胸騒ぎを憶え、良人の顔を不安げに見つめた。
「どうした、俺はそんなにこの世の終わりとでも言いたげな顔をしているか?」
その言葉に、美空は返答に窮する。
短い、先刻よりも更に気詰まりな沈黙の後、孝俊が真っすぐに美空を見つめた。
「その顔では、どうやら図星だな」
孝俊は昏(くら)い笑いを収めると、美空を真正面から見据えながら言った。
「そなたは昔から嘘をつくのが下手だ。いまだに考えておることがそっくりそのまま顔に出るところは昔と変わらぬな」
孝俊の視線がふっと美空から逸れる。そのまなざしはまた庭に向けられ、紫陽花の群れ咲く辺りを彷徨う。
「その正直さが俺は心底、羨ましい。いや、そなたのその変わらぬところが羨ましいのかな。そなたはたとえどこにあろうと、少しも変わらぬ。市井にても、この上屋敷においても、変わらぬ花を咲かせている。俺は真を申せば、そんなそなたに少しばかり妬ましさを感じておるのやもしれぬ」
予期せぬ良人の心情の吐露に、美空は言葉を失う。今の述懐は果たして賞められているのか、その逆なのか、判断に苦しむところだ。
「殿、私は裏店で生まれ育った者にございます。思いもかけず尾張藩の上屋敷でこうして暮らすような身となり、殿に相応しき妻であろうと日々、努力致して参りましたれど、やはり生まれ育ちは変えられませぬ。それゆえ、殿にご迷惑をおかけして―」
美空は、孝俊から初めて恋心を打ち明けられたときのことを思った。もう三年、いや、四年近くも前のことになるけれど、あの日、孝俊は美空に万葉集の中の一首を示し、その和歌に託して自分の恋情を美空に伝えたのだ。
―玉ゆらに 昨日の夕見しものを 今日の朝に恋ふべきものか
