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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第9章 第三話〝細氷(さいひょう)〟・其の壱

 むろん、更にその一年前に上屋敷に迎えられた際、美空は孝俊の正妻として認められてはいるものの、華燭の典を行うまで、町民出身の美空の出自についてとかく言う輩も多かったのは事実だ。孝俊は苦慮の末、そのような口さがない噂を封じるためにも、美空を近衛家の姫として改めて正室として迎えるための婚儀を執り行ったのである。
 瀬川は普段は大人しやかで滅多と声を荒げることもなかったが、こと学問の時間となると人が変わったように厳しくなった。たとえご簾中相手だとしても、いささかも手加減はない。
―気にすることはない、知らなければ、憶えれば良い。
 かつて自分は本当に何も知らないのだと、万葉集を知らぬこと、無学さを恥じた美空に孝俊はそう言った。その時、美空は心底嬉しかった。その優しさに報いるためにも、孝俊の名に傷をつけぬよう、その妻、ご簾中としてふさわしい教養を身につけようと熱心に字ぶだけでなく、琴なども習い憶えた。師も眼を瞠るほどの憶えの良さ、熱心さで、元々聡明ゆえ、乾いた砂に水が滲み込むように様々な知識を吸収していった。
 生来、利発で向学心のあった美空は、ここに来てからというもの、色々なことを習い憶えるのが嬉しくもあり愉しくもあった。知ることは、歓びでもあり、いまだ己れの知らぬ世界の扉を開くことでもある。だが、学ぶ愉しさもさることながら、美空のその熱心さの裏には常に良人にふさわしき妻になりたいという願いが秘められていたのである。
 美空は、孝俊がいまだに自分が尾張藩のご簾中になり切れてはいない―、孝俊がそう暗に言おうとしているのだと、咄嗟に思ったのだが、孝俊は曖昧な笑みを刻み、首を振る。
「いや、俺は何もそなたを責めているわけではない。実際のところ、そなたはよくやってくれた。瀬川どのの指導の賜(たまもの)でもあるが、何より、そち自身が懸命に学び勤しんだゆえであろう。安心いたせ、今や美空は押しも押されぬこの尾張藩ご簾中だ。まるで、真に近衛家の姫として生まれ育ったかのような貴婦人ぶりも板についておるぞ?」
 と、最後は昔、孝俊がよく口にしたように戯れ言めいた口調で言う。

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