
激愛~たとえ実らない恋だとしても~
第9章 第三話〝細氷(さいひょう)〟・其の壱
「殿、そのお言葉は一体、どのような―」
問わずにはおられず、言いかけた美空の言葉を遮るように孝俊が話題を変えた。
「美空、そなたの名は確か、父御が付けたのだと申しておったな」
そういえば、確かに、以前、孝俊にそのようなことを話したことがあると、ぼんやりと思い出した。突然、名前の由来を訊ねられ愕いたものの、美空は頷く。
「はい、そのように聞き及んでおりますが」
「そなたの父御は何ゆえ、そなたを美空と名付けたのであろうか」
孝俊は庭の紫陽花を見つめ、そんなことを言う。
美空は物心ついたばかりの時分、父の膝で聞いた話を思い出した。
「私が生まれた日は丁度秋で、きれいな空が江戸の町の上にひろがっていたそうにございます。その時、父は、生まれたばかりの私に、こんな空のようであって欲しいと咄嗟に思うたのだと申しておりました。空はあらゆるものを慈しみを込めた優しげなまなざしで見守っている、お前もあの空のようにすべてのものを包み込み、あまねくその懐に抱(いだ)く存在であれ、との願いを込めたのだと聞きました」
―良いか、美空。お前はずっと、人々を包み込む蒼い空のようでいるんだぞ? 何があっても、いつも他人(ひと)を思う気持ちを忘れずに、他人に泣かされることがあったとしても、お前自身はけして他人を泣かせるな。
父の膝の上に座って聞いたあの科白は、今でもなお、美空の心の奥深くで生きている。
飾り職人であった父の手は大きくて、指がすんなりと長くて、とてもきれいな手をしていた。数々の繊細な細工を生み出すその手が美空の頭を愛おしげに撫でてくれた―。
幼い頃の大切な父の想い出だ。
「美しき蒼い空、か」
孝俊は紫陽花から視線を空に移し、呟いた。
六月の江戸の空は、絵の具で塗りつぶしたかのように涯(はて)なく蒼い。湖を思わせるその澄んだ青空の向こうに、真綿をちぎったような白いちぎれ雲が浮かんでいた。
「そなたは、まさしく父御の願うたとおりの娘に育ったというわけだな」
孝俊は降り注ぐ六月の陽光に眼を細めた。
問わずにはおられず、言いかけた美空の言葉を遮るように孝俊が話題を変えた。
「美空、そなたの名は確か、父御が付けたのだと申しておったな」
そういえば、確かに、以前、孝俊にそのようなことを話したことがあると、ぼんやりと思い出した。突然、名前の由来を訊ねられ愕いたものの、美空は頷く。
「はい、そのように聞き及んでおりますが」
「そなたの父御は何ゆえ、そなたを美空と名付けたのであろうか」
孝俊は庭の紫陽花を見つめ、そんなことを言う。
美空は物心ついたばかりの時分、父の膝で聞いた話を思い出した。
「私が生まれた日は丁度秋で、きれいな空が江戸の町の上にひろがっていたそうにございます。その時、父は、生まれたばかりの私に、こんな空のようであって欲しいと咄嗟に思うたのだと申しておりました。空はあらゆるものを慈しみを込めた優しげなまなざしで見守っている、お前もあの空のようにすべてのものを包み込み、あまねくその懐に抱(いだ)く存在であれ、との願いを込めたのだと聞きました」
―良いか、美空。お前はずっと、人々を包み込む蒼い空のようでいるんだぞ? 何があっても、いつも他人(ひと)を思う気持ちを忘れずに、他人に泣かされることがあったとしても、お前自身はけして他人を泣かせるな。
父の膝の上に座って聞いたあの科白は、今でもなお、美空の心の奥深くで生きている。
飾り職人であった父の手は大きくて、指がすんなりと長くて、とてもきれいな手をしていた。数々の繊細な細工を生み出すその手が美空の頭を愛おしげに撫でてくれた―。
幼い頃の大切な父の想い出だ。
「美しき蒼い空、か」
孝俊は紫陽花から視線を空に移し、呟いた。
六月の江戸の空は、絵の具で塗りつぶしたかのように涯(はて)なく蒼い。湖を思わせるその澄んだ青空の向こうに、真綿をちぎったような白いちぎれ雲が浮かんでいた。
「そなたは、まさしく父御の願うたとおりの娘に育ったというわけだな」
孝俊は降り注ぐ六月の陽光に眼を細めた。
