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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第9章 第三話〝細氷(さいひょう)〟・其の壱

日中ははや、真夏を思わせるほどの陽気で、室内は涼しいが、一歩庭に出れば、かなり強い陽差しが容赦なく照りつけてくる。
「いつまでも変わらずにいてくれ、美空。そなたの父御の願うたように、永久(とこしえ)にあの空のように俺を見守っていてくれぬか」
 孝俊がまるで独り言のように呟いた言葉が、何故か美空の心を震わせる。
「殿、私はいつでも殿のお側におりまする。たとえ、殿が離れろとおっしゃっても、私はけしてお側を離れたりは致しませぬ」
 美空が心の動揺をひた隠し、これもまた冗談めかして言うと、孝俊は漸く笑顔を見せた。
「そなたも結構、言うようになったな」
 孝俊は愉快そうに言うと、そっと美空を引き寄せた。
「さりながら、惚れた女にそのように言われるのも悪くはない」
 耳許で吐息混じりに囁かれ、美空は良人の逞しい胸に身を預け、そっと眼を伏せた。
 新緑を彷彿とさせる清々しい香りが孝俊の身体からかすかに漂ってくる。孝俊が好んで使う香の匂いだ。
 その大好きな匂いを感じながら、美空もまた愛する男の傍にいられる幸せを噛みしめていた。孝俊が思いもかけず尾張藩主となるべき身だと知った時、美空は一度は別離を覚悟した。自分のような者には到底、大藩の奥方など務まるはずがないと端から諦めていた。
 だが、孝俊の傍にいたい一心で共に未知の世界に脚を踏み入れ、随分と辛いこともあった。色香で孝俊を誑かした淫婦だと囁かれ、賤しい生まれの女が尾張藩ご簾中なぞとは笑止と、真っ向から非難の矢面に立たされたのだ。好意的な視線よりも冷たい非難ままなざしに曝されることの多かった日々。
 もし、孝俊という存在がなければ、美空はとうにこの場から逃げ出していただろう。それでも、何とか今日まで耐えてこられたのは、孝俊の傍にいたいという想いがあったからだ。孝俊の前ではけして泣かなかったが、一人で泣いたことは数知れなかった。その流した涙が無駄ではなかったと思えるほど、今は安らいだ日々の中で暮らしている。
 それは、孝俊の指摘するように、美空が努力を積み重ねた末、生まれながらの貴婦人と呼んでも良いほどに藩主夫人としての教養も気品も身につけたからでもあった。また、幸運にも嫡子徳千代に続いて、第二子孝次郞と若君を二人も生んだこともあるだろう。

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