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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第9章 第三話〝細氷(さいひょう)〟・其の壱

「徳千代君、こちらへいらせられませ」
 徳千代は泣きながら母の腕に飛び込む。
「申し訳ございませぬ、私の不注意にございます」
 大切な世継の若君を木馬から落下させてしまったという失態に、楓は色を失っている。
 江戸のさる呉服問屋の娘だという楓は、尾張藩の重臣を仮親、つまり養女となって奥向きに奉公に上がっている。
 泣きそうになって、ひたすら平伏して詫びる楓に、美空は鷹揚に言った。
「何もそなたが謝ることはありません。悪いのは徳千代君なのですから」
「さりながら―」
 懸命な眼で見上げる楓に、美空は微笑んだ。
「たとえ幼くとも、事の良し悪しはちゃんと心得させねばなりませぬ。非は年長者であるそなたの忠言をきこうとしなかった若君にあります。そなたは何も悪くはない。徳千代には私からよく言い聞かせておきますゆえ」
 美空の言葉に、どうやらお咎めはないらしいと、楓は涙ぐんで頭を下げた。
 徳千代はといえば、美空の胸に顔を埋めて、わんわんと派手な泣き声を上げている。
 その時、居間の襖が静かに開き、抑揚のある声が喧噪を破った。
「これは、賑やかなだな」
 突然の孝俊の登場に、美空を初め、智島、楓が次々に手をつかえる。
「徳千代君が転んでしまって、このような大騒ぎになっておりまする」
 美空が機転を利かせて説明し、孝俊は声を上げて笑った。
「徳千代、男がそのようなことで泣いて、いかがする。武士とは、容易く泣き顔なぞ見せるものではないぞ」
 孝俊は美空の手から徳千代を抱き取ると、高々と持ち上げた。
「のう、男とは、いかなるときも泣き言は申してはならぬ。強き男こそが立派な大将となれるのだぞ」
 高く持ち上げられた徳千代がまだ涙を溜めた眼で父を見つめる。
「父上、おん大将は泣いてはならぬのでござりますか」
 無心な瞳で問いかけられ、孝俊は微笑んで力強く頷いた。

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