
激愛~たとえ実らない恋だとしても~
第9章 第三話〝細氷(さいひょう)〟・其の壱
「何と、それほどお具合がお悪いのでございますか」
美空がやっとの想いで言葉を紡ぎ出すと、孝俊はゆるりと首を振った。
「侍医に言わせれば、むしろ、今まで小康状態を保っておられた方が不思議だったそうだ。一刻ほど前、江戸城から急使が遣わされ、俺も上さまご危篤の由を承ったばかりだ。これより、急ぎ登城せねばならぬ」
「まあ、それでは、お支度を調えねば」
早速立ち上がろうとする美空を手で制し、孝俊は低い声で言った。
「待て、支度は表で整えさせるゆえ、そなたの手を煩わせるには及ばぬ。それよりも、時この期に及んで、そなたには申し聞かせておくことがある」
常ならぬ良人の緊迫した声は、将軍家危篤という異常事態出来のために相違ない。美空は高まる胸の警鐘を無理に押さえ込もうとした。
「はい、謹んで承りまする」
美空がその場に端座すると、孝俊は息を吸い込んだ。
「上さまにご後嗣のおわされぬのは、そなたもよく存じておろう」
美空は小さく頷く。
御年四十八におなりの将軍友公には現在、後を次ぐべき世嗣がいない。宮家から降嫁した姫宮である御台所との間には子がなく、数人の側室が生んだ公子は皆、十五歳に達する以前に早世した。
そのため、将軍跡目をめぐって、水面下で熾烈な権力闘争が繰り広げられていた。むろん、御三家筆頭の立場にある尾張徳川家の当主たる孝俊がその跡目候補の一人だという認識は美空も持っていたけれど―、それはあくまでも認識程度のものにすぎなかった。
現将軍家友公が突如として倒れたのは、美空と孝俊が二度目の祝言、つまり婚儀を尾張藩邸で盛大に挙げたそのひと月後であった。そのため、婚儀を済ませて三月(みつき)後には参勤交代で国許に帰る予定であった孝俊は急きょ、予定を変更し、江戸にとどまることになった。
家友公は卒中の発作で倒れたのである。その後も、将軍家の病状芳しからずで、帰るに帰れず、江戸に足止めの状態がもう三年もの間続いている。異例といえば、それ自体が異例のことであった。
美空がやっとの想いで言葉を紡ぎ出すと、孝俊はゆるりと首を振った。
「侍医に言わせれば、むしろ、今まで小康状態を保っておられた方が不思議だったそうだ。一刻ほど前、江戸城から急使が遣わされ、俺も上さまご危篤の由を承ったばかりだ。これより、急ぎ登城せねばならぬ」
「まあ、それでは、お支度を調えねば」
早速立ち上がろうとする美空を手で制し、孝俊は低い声で言った。
「待て、支度は表で整えさせるゆえ、そなたの手を煩わせるには及ばぬ。それよりも、時この期に及んで、そなたには申し聞かせておくことがある」
常ならぬ良人の緊迫した声は、将軍家危篤という異常事態出来のために相違ない。美空は高まる胸の警鐘を無理に押さえ込もうとした。
「はい、謹んで承りまする」
美空がその場に端座すると、孝俊は息を吸い込んだ。
「上さまにご後嗣のおわされぬのは、そなたもよく存じておろう」
美空は小さく頷く。
御年四十八におなりの将軍友公には現在、後を次ぐべき世嗣がいない。宮家から降嫁した姫宮である御台所との間には子がなく、数人の側室が生んだ公子は皆、十五歳に達する以前に早世した。
そのため、将軍跡目をめぐって、水面下で熾烈な権力闘争が繰り広げられていた。むろん、御三家筆頭の立場にある尾張徳川家の当主たる孝俊がその跡目候補の一人だという認識は美空も持っていたけれど―、それはあくまでも認識程度のものにすぎなかった。
現将軍家友公が突如として倒れたのは、美空と孝俊が二度目の祝言、つまり婚儀を尾張藩邸で盛大に挙げたそのひと月後であった。そのため、婚儀を済ませて三月(みつき)後には参勤交代で国許に帰る予定であった孝俊は急きょ、予定を変更し、江戸にとどまることになった。
家友公は卒中の発作で倒れたのである。その後も、将軍家の病状芳しからずで、帰るに帰れず、江戸に足止めの状態がもう三年もの間続いている。異例といえば、それ自体が異例のことであった。
