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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第9章 第三話〝細氷(さいひょう)〟・其の壱

 家友公は世継を定めることもなく、将軍家が不例という事態に陥っても、将軍後見職を務める者もいない有り様だった。幸いにも現在は初代家康公が幕府を開いて百年余りが経ち、天下泰平の世が続いている。これといった懸案事項もなく、人心も平らかであった。老中たちが合議制という形を取り、当面の政治は無難にこなしていったが、それも最初はこう長く続くことだとは誰もが予測さえしていなかったのだ。
 そもそも御三家は、幕府を開いた初代将軍家康が万が一、将軍家に後嗣なき際に備えて創設した分家である。ゆえに、今回のように世継がおらぬまま将軍不慮などとなった場合、御三家の当主が宗家に入って後を継ぐのがならいであった。
 ちなみに、水戸徳川家は代々、副将軍の地位に就くことから、将軍になることはあり得ない。となれば、必然的に筆頭の立場にある尾張家当主が次の将軍の最有力候補となることは明白であった。
 美空は固唾を呑んで、良人の言葉を待つ。
 胸の鼓動はいよいよ速くなり、これから孝俊が告げようとする事態がけして自分たちにとって望ましいものではないことを告げていた。―それは、怖ろしい予感であった。
「殿」
 聞きたくない、けれど、耳を塞いでしまうわけにもゆかない。美空は勇気を振り絞り、話の続きを促すように良人を呼ぶ。
 孝俊が緩慢な動作で美空を振り返った。
「上さまに変事ありしときには、もしや我が家から次の将軍を出さねばならぬやもしれぬ」
「殿、それは、つまり殿ご自身が本家にお入りにならるるということにございますか?」
 美空は唇を戦慄かせた。
 孝俊らしくない持って回った言い方だが、我が家、即ち尾張徳川家から次の将軍を出すということは、他ならぬ当の孝俊が宗家たる将軍家に入ることを意味する。
 そんな馬鹿なことがと言いたかった。良人が御三家筆頭の当主であると知っていながらも、これまで美空は孝俊が将軍になることなんてあるはずがないと信じ込んできたのだ。
「出過ぎたことは承知で申し上げまする、殿、そのお話は既にもうお決まりになったことにございますか!? お断りするわけにはゆかぬのでございますか」
 自分でも思いもかけず、悲鳴のような声になってしまった。

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