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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第9章 第三話〝細氷(さいひょう)〟・其の壱

「私は、いやでございます。もう、いや! これ以上、運命(さだめ)に振り回されるのはご免です。今の生活でさえ、私にはいまだに馴染めないのに、そんな将軍さまの、公方さまの妻だなんて―」
―私などに務まるはずがありませぬ。
 その短い最後のひと言を呑み下し、美空は唇を噛んだ。
 知らず涙が溢れる。
「美空、そなたは十分よくやっているではないか。それなのに、何故、そのようなことを申すのだ? そなたであれば、たとえ江戸城に入り御台所となったとて上手くやってゆけよう」
 孝俊が何げなく言った科白に、美空は弾かれるように面を上げた。
「殿、もしや、将軍お跡目のお話は、既にご存じでいらせられたのでございますか」
 そういえばと、今更ながらに心当たりがあった。数日前に突如として美空の部屋を訪れた孝俊の様子、いつもにもまして心ここにあらずといった体だったこと。更に遡れば、ここふた月ばかりの間、孝俊が塞ぎ込んで、何事か考え事に耽っている姿をよく見かけた―。
―いつまでも変わらずにいてくれ、美空。そなたの父御の願うたように、永久(とこしえ)にあの空のように俺を見守っていてくれぬか。
 数日前、孝俊が美空に向けたあの科白は、孝俊の精一杯の気持ちだったのだ。
 たとえ、何があっても、どこに行こうとも、美空は今の美空のままで変わらずにいて欲しいという―。
 だが、そのゆく先がよもや江戸城だとは一体、誰が想像し得ただろう! 恐らく、孝俊の瞳に翳りが落ち始めたその頃、彼は次の将軍になるべき宿命を背負ってしまったと悟らざるを得ない事態が起きたに相違ない。
 孝俊は虚を突かれたような表情でしばし美空を見つめ。
 やがて、ホウと溜息を零した。
「済まぬ。黙っているつもりはなかったのだ。さりながら、事が事だけに、大っぴらに口にできる話ではなく、また、叶うことなら、俺は公方さまご快癒を信じたかった」
 気詰まりな沈黙が落ちる。その静けさにたまりかねたように、孝俊が声を高くした。

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