
激愛~たとえ実らない恋だとしても~
第9章 第三話〝細氷(さいひょう)〟・其の壱
つい今し方、孝俊に訴えたように、美空個人は到底、この事態を受け容れることはできそうにもない。
―今でも尾張藩のご簾中としてさえ、この生活に馴染めぬというのに、公方さまの奥方だなんて、この私に耐えられるはずがない。
江戸城の奥向き、つまり将軍の後宮に匹敵する大奥はお末と呼ばれる最下級の下女まで含めれば、総勢三千とも云われ、その女たちの頂点に立つのが将軍の正室、つまり〝御台所〟と呼ばれる高貴な女性である。
その御台所に、長屋に生まれ育った職人の娘がなるなど、まさに夢物語にもならないどころか、とんだお笑いぐさだ。孝俊が尾張藩のお世継ぎだと知ったときも愕きはしたけれど、これほどではなかった。何しろ、話は天下の将軍さま、美空など市井に生まれ育った庶民から見れば、雲の上の人になる。世の中には受け容れられる現実と、どうにも認めることのできない現実とがある。
美空が半ば自嘲気味にそんなことを考えていると、孝俊の声が耳を打った。
「何ゆえ、俺がお前に話せなかった真の理由が判るか?」
振り絞るような口調、思いつめたような瞳。
美空はその瞳に宿る切なげな光に、思わず胸を衝かれた。
「そなたにこれ以上、要らざる苦労をかけたくなかったからだ」
その言葉に、美空はハッと孝俊を見つめた。
哀しげな瞳が揺れている。
「そちにはこれまでもう十分すぎるほど辛い想いをさせた。この上、更に江戸城へ連れてゆき、苦労をさせるのは忍びなかった。だからこそ、公方さまのご本復を誰より願い、祈っていた。いずれは、将軍にならざるを得ぬ仕儀にあいなったしても、そのときを少しでも先に延ばしたいと思った。だが、御仏はどうやら我が願いをお聞き届けにはならなかったようだ」
美空は、緩くかぶりを振る。
「殿、私には到底、無理な話にございます。尾張藩のご簾中としてさえ、十分な務めもできてはおりませぬのに、その上、公方さまの妻、御台さまなどにこの私がなり得ようはずもございませぬ。それに、四畳半ひと間に馴染んだ我が身が千代田のお城などに上がれば、それこそ迷子になってしまいまする」
―今でも尾張藩のご簾中としてさえ、この生活に馴染めぬというのに、公方さまの奥方だなんて、この私に耐えられるはずがない。
江戸城の奥向き、つまり将軍の後宮に匹敵する大奥はお末と呼ばれる最下級の下女まで含めれば、総勢三千とも云われ、その女たちの頂点に立つのが将軍の正室、つまり〝御台所〟と呼ばれる高貴な女性である。
その御台所に、長屋に生まれ育った職人の娘がなるなど、まさに夢物語にもならないどころか、とんだお笑いぐさだ。孝俊が尾張藩のお世継ぎだと知ったときも愕きはしたけれど、これほどではなかった。何しろ、話は天下の将軍さま、美空など市井に生まれ育った庶民から見れば、雲の上の人になる。世の中には受け容れられる現実と、どうにも認めることのできない現実とがある。
美空が半ば自嘲気味にそんなことを考えていると、孝俊の声が耳を打った。
「何ゆえ、俺がお前に話せなかった真の理由が判るか?」
振り絞るような口調、思いつめたような瞳。
美空はその瞳に宿る切なげな光に、思わず胸を衝かれた。
「そなたにこれ以上、要らざる苦労をかけたくなかったからだ」
その言葉に、美空はハッと孝俊を見つめた。
哀しげな瞳が揺れている。
「そちにはこれまでもう十分すぎるほど辛い想いをさせた。この上、更に江戸城へ連れてゆき、苦労をさせるのは忍びなかった。だからこそ、公方さまのご本復を誰より願い、祈っていた。いずれは、将軍にならざるを得ぬ仕儀にあいなったしても、そのときを少しでも先に延ばしたいと思った。だが、御仏はどうやら我が願いをお聞き届けにはならなかったようだ」
美空は、緩くかぶりを振る。
「殿、私には到底、無理な話にございます。尾張藩のご簾中としてさえ、十分な務めもできてはおりませぬのに、その上、公方さまの妻、御台さまなどにこの私がなり得ようはずもございませぬ。それに、四畳半ひと間に馴染んだ我が身が千代田のお城などに上がれば、それこそ迷子になってしまいまする」
