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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第9章 第三話〝細氷(さいひょう)〟・其の壱

 孝俊は驚愕と絶望を宿した瞳で、美空を茫然と見つめていた。彼にとっては、全く考えてもみなかった展開なのだろう。
「殿、そろそろご登城の刻限にございますれば」
 襖越しに控えの間から老女唐橋の声が聞こえてきた。大方、表の方で孝俊を待っていた家老の碓井主膳が業を煮やして様子を窺いにきたに相違ない。
「あい判った、すぐに参る」
 孝俊が応える。
「この話は帰り次第、今一度、ゆっくりと致そう」
 孝俊は言い置くと、襖を開けて足早に出ていった。襖が外側から音もなく静かに閉まる。
 智島も美空の心を思いやってか、部屋内に入ってこようとはしない。情報通の彼女のことだ、既に将軍危篤の報は察知していることだろう。孝俊がなかなか姿を現さないことも、夫婦間の話がけして上手くはいっておらぬことを物語っていたに違いない。
 美空は深閑とした部屋の中で、しばし惚けたように座していた。ふと視線を動かすと、庭先の紫陽花が露を宿し、這い寄る夕闇の中でひっそりと花開いていた。しっとりと露をを帯びた色とりどの花たちは、煌めく七宝焼き細工のようにも見える。
 重なり合った鈍色の雲と雲の間から、ひとすじの光が差していた。灰色の空がかすかに茜色に染まっていることから、明日はとりあえずは晴れるのだろうと、ぼんやりとした意識で考える。
 今は明日の天気のことどころではないだろうに、のんびりとそんなことを考える自分を他人事(ひとごと)のように冷めた眼で見つめるもう一人の自分がいる。
 紫陽花の花は、これから雨が降る度に、少しずつ、その色を深めてゆくのだろう。ひと雨毎に変わってゆく花の色は、うつろう心の象徴のようだ。
 美空は空を見上げ、もう一度、溜息を零した。美空の心をそのまま映し出したかのような鈍色の曇り空が江戸の町を広く覆っている。紫陽花の色の鮮やかさが、灰色に塗り込められた風景の中でそこだけ際立って見える。今の美空には、その場違いな艶やかさがかえって哀しかった。

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