
激愛~たとえ実らない恋だとしても~
第9章 第三話〝細氷(さいひょう)〟・其の壱
その日の夜更けのことである。
夜半をかなり回って、孝俊が江戸城から帰館した。将軍危篤の報を受け直ちに登城した孝俊であったが、幸いにも家友公の病状は持ち直し、孝俊は一旦、藩邸に戻ることになったのだ。が、たとえ家友公が今すぐ薨去ということはなくとも、孝俊が既に将軍継嗣であるという事実には変わりはない。
それに、最悪の状況は逸したとはいえ、家友公は意識のない状態がもう一年近くも続いている。倒れた直後は寝たきりではあっても、意識はあったのだが、その後、何度か軽い発作を起こし、数回目の発作でついに意識を失った。つまり、依然としてその容体は予断を許さぬものであった。
深夜にも拘わらず、孝俊は美空の部屋を訪れた。表で着替えてすぐにこちらへ渡ったらしく、既に正装は解き、白一色の夜着姿となっていた。
対する美空は、夜着ではなく、昼間の小袖に打掛姿で良人を出迎えた。
「先刻の話だが」
孝俊と将軍継承について話し合って、既に数時間が経っている。今更、先刻の話というのも妙だが、孝俊にしてみれば、他に言い様がなかったのかもしれない。
「お許し下さいませ」
美空はその場に両手をついた。
孝俊が留守の間、美空も美空なりにもう一度、考えてみたのだ。だが、結局、めぐる想いに応えは出ず、今まさに自分が直面しようとしている現実が到底受け容れられるものではないとしか思えなかった。
お伽噺は一度で終わりなのだ。夢のような幸せは一度だけ、二度は起こらない。
―姫君とお殿さまは晴れて夫婦(めおと)となり、いついつまでも幸せに暮らしましたとさ。
父が幼い頃、添い寝して聞かせてくれた昔話の中で、主人公の姫君は最後には幸せになる。だが、物語はそれで終わり、幾多の障害を乗り越え、愛し合って結ばれた二人はいついつまでも幸せに暮らしてゆくのだ。
話は、そこで終わり。奇蹟は二度は起こらない―それが、現実だ。
「どうしても、そなたは俺については来られぬと申すのか」
いきなり手を掴まれ、強い力で引き寄せられる。漆黒の瞳が間近で美空を射貫くように見つめていた。互いの息遣いさえ聞こえるほどの至近距離で、深い闇色の瞳が不可思議な光を放ち、美空を見据えている。
夜半をかなり回って、孝俊が江戸城から帰館した。将軍危篤の報を受け直ちに登城した孝俊であったが、幸いにも家友公の病状は持ち直し、孝俊は一旦、藩邸に戻ることになったのだ。が、たとえ家友公が今すぐ薨去ということはなくとも、孝俊が既に将軍継嗣であるという事実には変わりはない。
それに、最悪の状況は逸したとはいえ、家友公は意識のない状態がもう一年近くも続いている。倒れた直後は寝たきりではあっても、意識はあったのだが、その後、何度か軽い発作を起こし、数回目の発作でついに意識を失った。つまり、依然としてその容体は予断を許さぬものであった。
深夜にも拘わらず、孝俊は美空の部屋を訪れた。表で着替えてすぐにこちらへ渡ったらしく、既に正装は解き、白一色の夜着姿となっていた。
対する美空は、夜着ではなく、昼間の小袖に打掛姿で良人を出迎えた。
「先刻の話だが」
孝俊と将軍継承について話し合って、既に数時間が経っている。今更、先刻の話というのも妙だが、孝俊にしてみれば、他に言い様がなかったのかもしれない。
「お許し下さいませ」
美空はその場に両手をついた。
孝俊が留守の間、美空も美空なりにもう一度、考えてみたのだ。だが、結局、めぐる想いに応えは出ず、今まさに自分が直面しようとしている現実が到底受け容れられるものではないとしか思えなかった。
お伽噺は一度で終わりなのだ。夢のような幸せは一度だけ、二度は起こらない。
―姫君とお殿さまは晴れて夫婦(めおと)となり、いついつまでも幸せに暮らしましたとさ。
父が幼い頃、添い寝して聞かせてくれた昔話の中で、主人公の姫君は最後には幸せになる。だが、物語はそれで終わり、幾多の障害を乗り越え、愛し合って結ばれた二人はいついつまでも幸せに暮らしてゆくのだ。
話は、そこで終わり。奇蹟は二度は起こらない―それが、現実だ。
「どうしても、そなたは俺については来られぬと申すのか」
いきなり手を掴まれ、強い力で引き寄せられる。漆黒の瞳が間近で美空を射貫くように見つめていた。互いの息遣いさえ聞こえるほどの至近距離で、深い闇色の瞳が不可思議な光を放ち、美空を見据えている。
