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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第10章 第三話・其の弐

 この家でただ一人暮らすようになって、たった一つ、自分に許した贅沢がこの荷葉の香を毎朝、焚くことであったのだ。江戸の屋敷を出るに当たり、殆ど荷物らしい荷物を持ち出さなかった美空だが、身の回りの品少々と、小さな香入れに収めた荷葉の香だけは持ってきた。
 唐突に孝俊が沈黙を破った。
「この得も言われぬ香りを見事調合すること叶うのは、流石に元は尾張藩主の妻であった女だけのことはある。到底、このような鄙びた村の賤(しず)の家(や)に暮らす女が持つ技ではないな」
 皮肉げな口調、尖った言葉。哀しくなるが、他ならぬ我が身自身がこの男をここまで追い込み、こんな昏い眼をさせるように仕向けてしまったのだ。
 美空は良人に黙って、屋敷を出た。望んだ結果ではなくとも、孝俊への裏切りには相違ない。孝俊にしてみれば、信じていた女に裏切られたという事実は徹底的に彼を打ちのめしただろう。
「さて、まず何から申し開きをして貰おうか」
 その何げなく放たれたひと言に、美空は弾かれたように面を上げる。
「私には、何も申し開きをするようなことは一切ございませんが」
「そうかな。では、最初に最も肝心なことを訊ねるとしよう。単刀直入に訊く。浪速屋誠志郎という男は何者だ?」
「―」
 誠志郎の名を持ち出された刹那、美空は心が凍り付くような恐怖を感じた。
―何故、孝俊さまが誠志郎さんのことを知っている?
 だが、その疑問はすぐに消えた。そんなことを訝しく思う前に、大体、どうして、孝俊が美空の居場所をこうして突き止めることができたのか。恐らくは、孝俊が隠密に美空のゆく方をひそかに探索させていたに相違ない。将軍家初め、各大名家はそれぞれ〝庭の者〟、〝お庭番〟と称される隠密組織を独自に抱えている。彼等は主命によって、どこまででも追跡者を追いかけ、そのゆく方を掴むことができる。時には、命令によりそのまま追跡者を暗殺することもあった。

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