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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第12章 第四話・其の壱

「―」
 美空は、それには応えず、黙って庭の桜を見つめた。正直言えば、先刻の言葉以上、応えようがないというのが本音である。
 良人家俊が第八代将軍となってまだ漸く一年、新しい治世の基盤はいまだ十分固まっているとは言い難い。初代東照公家康がこの江戸に幕府を開いて以来、百年が経過した現在、天下泰平の世が続き、人心が安定しているのは良いが、その反面、江戸の町にも怠惰で退廃的な気風が蔓延している。あまりにも平和な時代が続きすぎ、人々がその平和に飽き、倦み始めた。勝手といえば勝手なものではあるけれど、何も起こらないことを退屈に思い、人々がかえって刹那的な享楽、快楽に耽る傾向が出てきたのだ。
 その証が、この時期に花開いた町人文化である。読み本、洒落本、滑稽本など、戯作者が思い思いの物語を描き、それらが草紙屋、貸本屋に並ぶと、飛ぶような売れゆきを見せたが、それはかえって、人心を余計に刹那的な享楽へと走らせ、江戸の町の風紀を乱す因となっていった。
 それら男女の恋愛を描いた読み物の中には、思わず眼を覆いたくなるほどのきわどい描写もあった。幕府はそのような風俗を乱す類の本の流通を禁じたものの、読むなと言われれば余計に読みたくなるのが人情というものだ。禁令をよそに、裏では、いかがわしい本が闇のルートで流れ、多くの人に読まれた。
 また、退廃の気風はそればかりではない。平和な御世が続けば、必然的に人々は豊かさ―贅沢に慣れる。殊に金を持つ富裕な商人層は衣装に銭を湯水のごとく浪費した。言ってみれば、衣装に贅を凝らすことくらいしか、町人にとって愉しみがなかったからであるともいえる。
 家俊はそんな民の心を鎮め、江戸の町の風紀をただそうと懸命に尽くしている。将軍に就任した直後、倹約令を出し、江戸の人々に奢侈贅沢を固く禁じた。

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