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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第13章 第四話・其の弐

「そうか」
 家俊は頷くと、桜の笄をあっさりと袂にしまった。
「お怒りになられましたか?」
 美空が問うと、家俊は笑った。
「いや、いかにもそなたらしい応えだ。確かに上に立つ者、ましてや、倹約令を出した俺自身が奢侈に耽っていては示しがつかぬな。俺の短慮であった」
 家俊は機嫌を損じる風もなく、穏やかな表情で桜を見ている。
 薄紅色の花たちがまるで手鞠のように群れ高まって咲いている様は、それこそ先ほど見たばかりの桜の笄を見ているようであった。
 今日も江戸の空は蒼く澄んでいる。水底(みなそこ)のように深く澄んだ青空の彼方に、刷毛で描いたような白雲がぽっかりと浮かんでいる。
 光を受けてきらきらと光る花が、春の風に小刻みに身を震わせている。地面に落ちた花の影が風が吹く度に、かすかに揺れていた。
 家俊は風に吹かれながら、春の光景に見入っている。
 美空は良人の横顔を眺めながら、ある物を懐からそっと取り出し、指し示して見せた。
「上さま、こちらをご覧下さりませ」
 その言葉に何げなく振り向いた家俊が眼を見開いた。端整な顔に軽い愕きがひろがる。
「このようなもの、まだ大切に持っていたのか」
 美空の白い手のひらの上に載せられていたのは―。そう、あの櫛であった。
 朱塗りの地に控えめに白い水仙が描かれた蒔絵の櫛。まだ孝太郎と名乗っていた小間物売りに身をやつしていた頃、彼が美空に贈った櫛だ。
 思えば、この櫛が二人を結びつけたのである。初めて出逢った日、自分が落としてしまった櫛を買おうとした美空に、そんなに気に入ったのなら、ただでやろうと言った孝太郎。結局、美空は、そのときは櫛を貰わず、今度孝太郎に逢うことがあれば買い取ろうと、いつも銭を持ち歩いていた。

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