
激愛~たとえ実らない恋だとしても~
第1章 第一話 春に降る雪 其の壱
漸くゆっくりとした脚取りで歩きながら、美空の瞼には、たった今出逢ったばかりの男の顔が灼きついていた。
幾億もの夜を集めたような瞳は漆黒で、そのまなざしは深い。役者といっても通りそうなほど造作の整った面は精悍さを滲ませながらも、どこかに品の良さを窺わせた。
美空は、けしてあの櫛を欲しかったわけではない。否、むしろ、男の顔に見惚れていた己れをごまかすために、つい、櫛に見入っていたのだと咄嗟に出まかせを言ったのだ。
どうやら男は美空の言葉を額面どおりに受け取ったらしいが、万が一、自分の邪な想いが―男のきれいな顔に見惚れていたことなど見透かされていたらと想像しただけで、あまりの恥ずかしさに死んでしまいそうだ。
現実として、あの男の深いまなざしは人の心の奥底に潜む想いまでをも瞬時に見抜いてしまうかのような鋭さをも秘めていた。まなざしそのものは凪いだ春の海のようにやわらかなのに、どこか感情の読み取れぬような底知れなさがある。
それをいえば、あの男の存在そのものが謎めいたもののようにも思えてくる。身なりも物言いも町人そのものだし、一見、どこにでもいそうな小間物売り風の男だが、そのやわらかな物腰、穏やかな笑顔の下に何かが透けて見えるような気がする。
では、その正体が何なのかと問われれば、美空には応えようもないのだが。もしかしたら、すべては自分の考えすぎなのかもしれない。偶然の出逢いとはいえ、あまりに予期せぬものだったゆえ、男との出逢いをそんな風に特別のもののように思ってしまうのだろう。
男ぶりは良いが、殊に変わったところもない、ごく普通の男だった。得体が知れぬように思えるのもすべては自分の考えすぎだ。そう思おうとして、美空は、その考えが所詮はいっときの気休めでしかないことも判っていた。
初めてあの男が視界に入った時、美空の眼には確かにあの男が周囲の世界からはただ一人際立って見えたのだ。男とその周辺だけ刻が制止しているかのような、例えるなら、現の世界と隔絶された夢の世界、そこに住まう住人のような―。それを所詮は十六の小娘の感傷だと笑い飛ばすのなら、そうなのかもしれないけれど。
幾億もの夜を集めたような瞳は漆黒で、そのまなざしは深い。役者といっても通りそうなほど造作の整った面は精悍さを滲ませながらも、どこかに品の良さを窺わせた。
美空は、けしてあの櫛を欲しかったわけではない。否、むしろ、男の顔に見惚れていた己れをごまかすために、つい、櫛に見入っていたのだと咄嗟に出まかせを言ったのだ。
どうやら男は美空の言葉を額面どおりに受け取ったらしいが、万が一、自分の邪な想いが―男のきれいな顔に見惚れていたことなど見透かされていたらと想像しただけで、あまりの恥ずかしさに死んでしまいそうだ。
現実として、あの男の深いまなざしは人の心の奥底に潜む想いまでをも瞬時に見抜いてしまうかのような鋭さをも秘めていた。まなざしそのものは凪いだ春の海のようにやわらかなのに、どこか感情の読み取れぬような底知れなさがある。
それをいえば、あの男の存在そのものが謎めいたもののようにも思えてくる。身なりも物言いも町人そのものだし、一見、どこにでもいそうな小間物売り風の男だが、そのやわらかな物腰、穏やかな笑顔の下に何かが透けて見えるような気がする。
では、その正体が何なのかと問われれば、美空には応えようもないのだが。もしかしたら、すべては自分の考えすぎなのかもしれない。偶然の出逢いとはいえ、あまりに予期せぬものだったゆえ、男との出逢いをそんな風に特別のもののように思ってしまうのだろう。
男ぶりは良いが、殊に変わったところもない、ごく普通の男だった。得体が知れぬように思えるのもすべては自分の考えすぎだ。そう思おうとして、美空は、その考えが所詮はいっときの気休めでしかないことも判っていた。
初めてあの男が視界に入った時、美空の眼には確かにあの男が周囲の世界からはただ一人際立って見えたのだ。男とその周辺だけ刻が制止しているかのような、例えるなら、現の世界と隔絶された夢の世界、そこに住まう住人のような―。それを所詮は十六の小娘の感傷だと笑い飛ばすのなら、そうなのかもしれないけれど。
