
激愛~たとえ実らない恋だとしても~
第3章 其の参
そう考えてゆくと、この身体の異変が懐妊かどうかを確かめることさえ怖かった。孝太郎との二人だけの穏やかな幸せが〝懐妊〟という事実で壊れてしまいそうで。
美空は緩慢な動作で立ち上がった。洗濯物を小脇に抱え、長屋までゆっくりと歩く。
ふいに遠くから、かすかに鶯の鳴き声が響く。この界隈には町家ばかりしかないはずで、立派な庭付きのお屋敷なぞはとんと見当たらぬが、近くに梅の樹でもあっただろうか。
そんなことをちらりと考え、路地裏のどぶ板を踏みならし、家の腰高障子に手をかける。
そのときだった。唐突に目眩(めまい)を憶え、美空は咄嗟に戸を掴もうとした。しかし、わずかに間に合わず、その手は空しく宙をすべる。
次いでクラリと視界が傾き、美空のか細い身体はそのまま地面に倒れ込んだ。
―孝太郎さん。
意識を手放す間際、美空は恋しい男の名を呼んだ。
どこかで鶯がまた、鳴いている。その長閑な囀(さえず)りを別世界のもののように聞きながら、美空は眼を閉じ動かなくなった。
それから四半刻ほど後。徳平店の突き当たり―いちばん奥の住まいから体格の良い女が出てきた。
徳兵店は粗末な棟割り長屋が向かい合って建っており、要するに江戸の町のどこにでも見かけるような裏店である。大工の兵吉の住まいはその中でも木戸口からは最も遠い場所にあり、実を言うとその一角だけ店賃も他の部屋より安い代わりに、陽当たりが格段に悪い。
だが、お民の福々とした頬は赤々と健康そうに輝いており、亭主の兵吉が小柄で貧相なのに比べて、倍ほども横も縦も大きい。長屋の連中―口の悪い左官の源治などはそのあまりにも違いすぎる夫婦を見ては、
―兵さんのところは女房が一人で飯を食い尽くしてるんじゃねえか。
と、冗談で言う。
もっとも、当の源治にしろ他の連中にしろ、お民がそんな女ではなく、口では亭主に悪態をつきながらも兵吉をとても大切にしているのを知っているのだけれど。
お民は、からかい半分にそんなことを言われても、嫌な顔もせず、いつもにこやかに笑っており、源治の揶揄なぞカラカラと笑い飛ばしてしまう。
美空は緩慢な動作で立ち上がった。洗濯物を小脇に抱え、長屋までゆっくりと歩く。
ふいに遠くから、かすかに鶯の鳴き声が響く。この界隈には町家ばかりしかないはずで、立派な庭付きのお屋敷なぞはとんと見当たらぬが、近くに梅の樹でもあっただろうか。
そんなことをちらりと考え、路地裏のどぶ板を踏みならし、家の腰高障子に手をかける。
そのときだった。唐突に目眩(めまい)を憶え、美空は咄嗟に戸を掴もうとした。しかし、わずかに間に合わず、その手は空しく宙をすべる。
次いでクラリと視界が傾き、美空のか細い身体はそのまま地面に倒れ込んだ。
―孝太郎さん。
意識を手放す間際、美空は恋しい男の名を呼んだ。
どこかで鶯がまた、鳴いている。その長閑な囀(さえず)りを別世界のもののように聞きながら、美空は眼を閉じ動かなくなった。
それから四半刻ほど後。徳平店の突き当たり―いちばん奥の住まいから体格の良い女が出てきた。
徳兵店は粗末な棟割り長屋が向かい合って建っており、要するに江戸の町のどこにでも見かけるような裏店である。大工の兵吉の住まいはその中でも木戸口からは最も遠い場所にあり、実を言うとその一角だけ店賃も他の部屋より安い代わりに、陽当たりが格段に悪い。
だが、お民の福々とした頬は赤々と健康そうに輝いており、亭主の兵吉が小柄で貧相なのに比べて、倍ほども横も縦も大きい。長屋の連中―口の悪い左官の源治などはそのあまりにも違いすぎる夫婦を見ては、
―兵さんのところは女房が一人で飯を食い尽くしてるんじゃねえか。
と、冗談で言う。
もっとも、当の源治にしろ他の連中にしろ、お民がそんな女ではなく、口では亭主に悪態をつきながらも兵吉をとても大切にしているのを知っているのだけれど。
お民は、からかい半分にそんなことを言われても、嫌な顔もせず、いつもにこやかに笑っており、源治の揶揄なぞカラカラと笑い飛ばしてしまう。
