
激愛~たとえ実らない恋だとしても~
第1章 第一話 春に降る雪 其の壱
男の存在そのものはともかく、この胸のざわめきは何なのだろう。今日という日、初めてめぐり逢ったはずなのに、何故か、そんな気がしないのはどうして―?
もうずっと昔、この世に生まれ出(い)でるその前から、あの男を知っていたような、どこかで見たことがあるような懐かしさを憶えたのは、何故なのか。
もちろん、現実として、美空は、あの得体の知れぬ男に出逢ったのは今日初めてのことで、これまでに顔を見たこともなかったのだ。
―そんなのは考えすぎに決まってるじゃない。
美空は無理に自分に言い聞かせた。
一度として逢ったこともない、しかも通りすがりの小間物売りの男を懐かしいと感じるなんて、自分はどうかしている。
たとえ、その男が若くて、男ぶりも際立っているとしても、だ。そういえば、あの男は今、江戸で女たちに大人気の女形市橋栄次郎にどことはなしに似ている。栄次郎の出る芝居は〝雪姫〟にしろ〝鷺娘〟にしろ、とにかく連日満員で草紙屋ではその姿絵が飛ぶように売れているという。
栄次郎の人気が凄いのは若い娘たちだけでなく、これまでは役者には見向きもしなかった中年増以上―つまるところ、その娘たちの母親層の年代の女たちまでを虜にしているところだ。
わずかに眦(まなじり)がつり上がった眼許には、そこはかとない男の色香が溢れているといわれ、栄次郎がまなざし一つを動かしただけで、良い歳をした女房たちが溜息どころか失神さえしかねないほどの、のぼせようだと聞く。
もっとも、美空にはそんな役者狂いの女たちのような興味は皆目なかったし、第一、人気役者の姿絵を買うお足なんてあるはずもない。
それでも、美空は強引にでも我が身に言い聞かせた。そう、自分があの不思議な男のことばかり考えてしまうのは、きっと、あの男が市橋栄次郎に似ているせいだと。年の割には現実的で醒めていると自分でも思っていたけれど、やはり年相応の娘らしさというか娘心はわずかながらでも残っているのだろう。
そう思い込むことで、美空は何とかして、あの男の存在を自らの心から消し去ろうとしたのである。
もっとも、その日を生きてゆくことで精一杯の美空にとって、いつまでも一つの出来事に拘わっているゆとりはないというのが実状であった。
もうずっと昔、この世に生まれ出(い)でるその前から、あの男を知っていたような、どこかで見たことがあるような懐かしさを憶えたのは、何故なのか。
もちろん、現実として、美空は、あの得体の知れぬ男に出逢ったのは今日初めてのことで、これまでに顔を見たこともなかったのだ。
―そんなのは考えすぎに決まってるじゃない。
美空は無理に自分に言い聞かせた。
一度として逢ったこともない、しかも通りすがりの小間物売りの男を懐かしいと感じるなんて、自分はどうかしている。
たとえ、その男が若くて、男ぶりも際立っているとしても、だ。そういえば、あの男は今、江戸で女たちに大人気の女形市橋栄次郎にどことはなしに似ている。栄次郎の出る芝居は〝雪姫〟にしろ〝鷺娘〟にしろ、とにかく連日満員で草紙屋ではその姿絵が飛ぶように売れているという。
栄次郎の人気が凄いのは若い娘たちだけでなく、これまでは役者には見向きもしなかった中年増以上―つまるところ、その娘たちの母親層の年代の女たちまでを虜にしているところだ。
わずかに眦(まなじり)がつり上がった眼許には、そこはかとない男の色香が溢れているといわれ、栄次郎がまなざし一つを動かしただけで、良い歳をした女房たちが溜息どころか失神さえしかねないほどの、のぼせようだと聞く。
もっとも、美空にはそんな役者狂いの女たちのような興味は皆目なかったし、第一、人気役者の姿絵を買うお足なんてあるはずもない。
それでも、美空は強引にでも我が身に言い聞かせた。そう、自分があの不思議な男のことばかり考えてしまうのは、きっと、あの男が市橋栄次郎に似ているせいだと。年の割には現実的で醒めていると自分でも思っていたけれど、やはり年相応の娘らしさというか娘心はわずかながらでも残っているのだろう。
そう思い込むことで、美空は何とかして、あの男の存在を自らの心から消し去ろうとしたのである。
もっとも、その日を生きてゆくことで精一杯の美空にとって、いつまでも一つの出来事に拘わっているゆとりはないというのが実状であった。
