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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第3章 其の参

 狩納玄庵は近くに住む町医者だ。白髪、白い眉毛はどこか仙人を思わせる容貌で、若い頃は長崎で最新の阿蘭陀(おらんだ)医術を学んだこともあるという外科医でである。
 倅はさる藩の御殿医を務めるお偉方だと聞くが、玄庵その人は飄々として貧乏人からは薬代も診察料も取らないという欲のない老人だ。あの老医者ならば、診立ては間違いあるまい。
「てて親って、俺が父親になるのか?」
 孝太郎は今更当然のことを改めて呟いてみる。愕きの次には、嬉しさが込み上げてきて、ひとりでに頬が緩んだ。
「おいおい、孝太郎さん、しっかりしてくんな。赤くなったり蒼くなったりしてたかと思やア、今度は魂を持っていかれちまったように惚けた顔してるぜ」
 源治が溜息混じりにぼやくのが聞こえ、次いで、お民の呆れたような声が続く。
「なに、皆初めて子ができると判ったときは、あんなもんさ。あんたももう三十過ぎるんだろ? 良い加減に所帯を持って、さっさと子どもでも作っちまいな、源さん」
「余計なお世話だよッ。嫁の来手がありゃア、とっくに俺だって所帯を持ってらあな」
 この賑やかなやりとりもどこか現実の世界のものとは思えず、孝太郎がボウと突っ立っている傍らで、お民と源治は顔を見合わせ、そっと出ていった。
「ありゃア、当分は上の空だぜ」
 外から聞こえてくる源治の呆れ声もむろん、当の孝太郎の耳には入ってこない。
 孝太郎が我に返った時、既に狭い部屋にはお民も源治の姿もなく、もぬけの殻であった―。

 枕許に人の気配を感じ、美空はゆっくりと眼を開いた。濃い翳を落とす長い睫が細かく震え、やがて、ぱっちりと開く。かすんでいた視界の中で朧だった輪郭が次第にはっきりとした形を取り始める。
 最初に瞳にはっきりと映じたのは良人の不安そうな顔であった。
「ごめんなさい、心配かけちゃったわね」
 倒れた自分よりも、孝太郎の方が病人のような冴えない顔色のように見えた。どれだけ心配をかけたのかと思えば、申し訳なさで一杯になる。
「ろくに何も食べちゃいなかったんだって? 何で、そんなにフラフラになるまで黙ってたんだ」

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