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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第1章 第一話 春に降る雪  其の壱

 美空は今年、十六になる。ふた親はとうに亡くなり、現在は江戸の町外れにある徳(とく)平(べい)店(だな)に一人住まいだ。徳平というのは数年前に亡くなった長屋の持ち主―つまり大家の名である。温厚篤実な老人で長屋中の連中から慕われていた。その名を惜しんで、いまだにこの貧相な棟割り長屋は〝徳平店〟と呼ばれているのだ。
 美空の父弥助は無口な男だった。居職の桶職人であった父はいかにも職人気質らしい偏屈さと頑固さを持っていた。かと言って、けして人嫌いというのでもなくて、気の合った仲間同士数人集まれば、酒を囲み、少しの酒で酔っ払って人が変わったように朗らかで饒舌になる。
 そんな父のたった一つの愉しみは、近くの縄暖簾にたまに呑みにゆくことであった。父が亡くなるほんの数日前のことになるが、父がふいに再婚したいと言い出した。
 あのときのことを、美空はいまだに鮮明に記憶している。いつもは無骨な父が耳朶まで赤くなりながら、後添えを迎えようと思うのだが、どう思うかと訊いてきたのである。
 相手は、父が常連になっている縄暖簾の女将おれんであった。当時、二十七、八の小股の切れ上がった妖艶な美貌の女だった。おれんなら、美空も満更知らぬ仲ではない。いかにも男好きのする類の色気のある女ではあるが、気性はさっぱりとした江戸前の女で面倒見が良いことも知られていた。
 三十三の父とも釣り合う年齢だ。美空の母お志津は、美空が二つになる前に病で亡くなった。お志津が亡くなった年の冬、江戸は質の悪い流行風邪が蔓延し、体力や抵抗力のない女、年寄りや子どもが真っ先に犠牲になった。お志津は働き過ぎがたたって身体が弱っていたところに、その風邪に罹ったのである。
 父の口から再縁の話が出た時、母が亡くなって既に十年以上が経過していた。十二歳の美空に、父が後妻を迎えようとすることに何の異存もなかった。
 だが、父はそう言った言葉も消えやらぬ間に亡くなった。いつものように、ふらりと思い立ったごとく家を出た父は、そのまま帰らぬ人となった。父がそんな風にして外出する際、ゆく先は大抵は、おれんの店だと知っていた。だから、美空は格別にゆく先も訊ねることもしなかったし、よもや、それが父との今生の別れになるとは考えだにしなかった。

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