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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第5章 第二話〝烏瓜(からすうり)〟・其の壱

 忘れもしない、江戸を桜が咲いたというのに、雪が降るという異常気象が見舞ったのだ。江戸の町を低く覆った鈍色の空が、あたかも我が身のこれからの運命を暗示しているようにも思え、粉雪の舞う中、美空はたった一人、心細い想いを抱えて駕籠に揺られた。そんな美空の心を知らぬげに、智島は素っ気ない口調で対してきた。まさか、あのときはこの女が自分にとってかけがえのなき侍女になるとは想いもしなかった。
「ご簾中さま、あまりお心を悩ませられますな。尾張藩は大藩、ここ上屋敷に住まうだけでも数え切れぬほどの者がご奉公しております。されば、様々なことを申す者もおりましょうし、そんな心なき噂がご簾中さまのお耳を汚すこともございましょう。さりながら、そのような下らぬ噂を致す者こそ、心の貧しき者どもにござります。ここの連中は少々、頭が固うございますゆえ、刻はかかるやもしれませぬが、彼等もいずれはご簾中さまの真のお姿を見る日がやって参りましょう」
 智島の言葉を尽くしての諭しに、美空は小さく頷いた。
 ここまで自分を気遣ってくれる智島に、これ以上浮かぬ顔は見せられない。美空が無理に微笑みを作ろうとしたまさにその時、向こうから衣擦れの音が聞こえてきた。
 磨き抜かれたの廊下の彼方から、奥女中の一団がやって来るのが見える。
 智島は美空は、どちらからともなく顔を見合わせる。
 老女唐橋を先頭にした集団は十人ばかりはいるだろうか、美空と智島主従の姿が見えぬはずはないのに、まる宙を見るような顔でしずしずと歩いてくる。 
 唐橋は孝俊には継母に当たる宥松院付きである。同時に奥向きの奥女中たちを束ね監督する侍女頭の地位も兼ねており、智島の務める中老というのは老女の次に役職である。五十二になる宥松院よりは数歳若いと云われ、宥松院が京から嫁いできた際に付き従ってきた侍女であった。
 将軍家はむろん、それに準ずる家格の御三家の当主は代々、京の宮家か摂関家の姫君を妻に迎えるしきたりがある。宥松院は、摂関家の一つ鷹司家より尾張藩に嫁いできた。天皇家とも血縁関係のある摂関家の姫君―その出自にこだわり、誇りを持ち、それゆえに、良人のただ一人の側室であったおゆりの方の生んだ孝俊を憎んだ。

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