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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第5章 第二話〝烏瓜(からすうり)〟・其の壱

「さりながら、ご簾中さま、私はもう我慢なりませぬ。こちらが―ご簾中さまが黙って見過ごしておられるのを良いことに、あちらはなさりたい放題、言いたい放題ではございませぬか。これでは、ご簾中さまがあまりにもお労しくてなりませぬ」
 眼に悔し涙さえ滲ませて訴える智島に、美空は淡く微笑んだ。
「ありがとう、そう申してくれるのは智島だけですね」
 智島がいなかったら、美空はこの尾張藩上屋敷で孤立して、奥女中たちの冷たい悪意にまともに曝されていたに相違ない。今でも辛いことに変わりはないけれど、この忠実な侍女の存在がいかほど美空の心の支えになっているか。
 今だって、当の美空よりも智島の方が怒りを露わにし、憤っている。智島は美空にとっては、この上屋敷でたった一人心を許せる腹心であり、また姉のように頼りになる女だった。
 美空は智島に微笑みかける。
「そなたがそのように申してくれるのは心よりありがたいと思います。さりながら、殿はここのところ殊にご政務繁多にて、何かとお忙しい御身ゆえ、そのような些末なことで御心を悩ませてはなりませぬ」
 先代高次の死により家督を継いで尾張藩主となって漸く一年五ヵ月、孝俊は毎日多忙な日々を過ごしている。国許からは決裁せねばならない書状や案件は山のごとく送られてくるし、江戸での諸大名家との付き合いもなかなか侮れない。来年には恒例の参勤交代が在り、孝俊は藩主となって初めてのお国入りすることも既に決まっていた。
 これは諸大名に幕府が課したもので、大名は定期的に居城のある国許と江戸を行き来せねばならない。正室と嫡子は江戸にとどめおかれ、国許に同伴することは許されず、これは要するに大名から幕府が〝人質〟を取るも同然の行為だ。妻子を人質に取られている限り、大名が幕府に対して叛意を持つことはないからというのがその大本の考えである。
 むろん、正室である美空は孝俊に付いて尾張に帰ることは許されない立場であった。それは嫡子徳千代も同然であった。
 それでなくとも、重い荷を背負う孝俊に、これ以上心配はかけたくない。ましてや、奥向きの女たちの嫌がらせなぞ、美空本人が耐えれば済むことなのだから。良人の大切なときに、内輪の揉め事をあれこれ告げて邪魔をしたくはなかった。

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