テキストサイズ

激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第5章 第二話〝烏瓜(からすうり)〟・其の壱

 たとえ尾張藩主であろうと、小間物売りであろうと、孝俊が美空の愛した男であることは変わらないのだ。孝俊が孝俊である限り、美空はこの男に付いてゆく。その想いを新たにした出来事であった。
 が、美空の心中は母としては当然のものとはいえ、重臣たちの不安もまた道理である。現に、将軍家―当代の将軍家友公には男子が一人もおられず、将軍後継はいまだに定まらぬままの状態だ。家友公は御年四十五歳、けして若くはない。元々も家友公には側室との間に儲けた数人の若君がいたのだが、皆が成人に至前に早世してしまった。残るのは既に他家に嫁いだ姫君のみである。
 その将軍の跡目を巡り、さて次の将軍職は誰が継ぐのかと様々な憶測が取り沙汰されている。むろん、御三家筆頭尾張家の当主孝俊もその有力候補に入っていることは言うまでもない。将軍家の例を鑑みても、尾張藩の重臣たちが世継問題について気を揉むのは致し方のないことであった。
「まあ、今日は随分と早いのですね」
 美空が笑うと、心得た智島が立ち上がった。美空の居室は奥向きの最も奥まった一角にふた間続きで与えられている。廊下に接した部屋は控えの間、つまり智島のようなお付きの奥女中が待機する部屋であり、その奥の十畳の座敷が美空の居間となる。
 控えの間に消えた智島はほどなく、両腕に練り絹の着物を着た赤児を大切そうに抱えて戻ってきた。
 若君徳千代である。母の顔を見た徳千代は涙の溜まったつぶらな眼を見開き、キャッキャと声を立てて笑った。智島がそっと下に降ろすと、徳千代は覚束ない足どりで美空の許に歩いてゆこうとする。
「さ、ここまでおいでなさいませ」
 美空が両腕をひろげると、徳千代は小さな顔を真っ赤にして一生懸命に美空の許に歩いていった。
 やがて徳千代が辿り着くと、美空は我が子を抱き上げ〝高い、高い〟と持ち上げてやる。居間に赤児の嬉しげな声が響いた。
 徳千代は色白の、父孝俊に似た整った面立ちをしていた。徳千代のやわらかな頬を自分の頬を押し当てながら、美空はこの一瞬をかげがえのないものに思う。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ