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喪失、そして再生~どこか遠くへ~My Godness完結編

第2章 ♣海の女神♣

 うつむき加減にゆっくりと歩く悠理の側を、誰かが通り過ぎてゆく。
 思わず弾かれたように面を上げると、先刻の女が彼を追い越してゆくところだった。
「待って」
 声をかけたのは衝動的な行為だといって良かった。自分でもそんなつもりはなかったのだ。初日から漁に出ず、寝坊して雇い主の怒りを買ったばかりの身だ。女は網元を〝お父さん〟と呼んでいたから、娘なのだろう。この大切なときに、網元の娘に声をかけたりしようものなら、それこそ、どのような誤解を受けるか知れたものではない。今度こそ、ここを叩き出されるに違いない。
 だが、声をかけずにはいられなかった。何故なのか、自分の中の何かかが彼女に強い力で惹きつけられているのが判った。
「え―」
 女が訝しげに振り向いた。それもそうだろう、初対面の男に呼び止められる理由もないのだから。
 女は困惑した面持ちで悠理を見ている。
 大きな黒い瞳。腰まで届くサラサラとした髪は邪魔にならないように横で一つに結ばれ、控えめなシフォンのシュシュが飾っている。殆どノーメークといっても良いほどの薄化粧だが、元々、整った顔立ちなので違和感はない。
 クリームイエローのTシャツとジーンズに包まれた身体はほっそりとしているが、歳相応の成熟した豊満さを持っているであろうことは服の上からでも判った。
 あまり自慢にもならないが、多くの女性を見、関係を持ってきたからこそ、悠理は女性に関しては、ある程度の審美眼―見極められる眼を持っている。
「何か?」
 女はあからさまに警戒するように彼を見つめてきた。
「いや、何でもありません。済まない」
 悠理は小さく頭を下げた。その傍らを女が足早に通り過ぎていく。その瞬間、えもいわれぬ香りが悠理を包み込んだ。爽やかでいながら、どこか官能的な甘さを含んだ花の香り。
 不思議なことに、浜ゆうの匂いなど知らないのに、この魅惑的な香りがあの純白の花から放たれるものと同じだと本能的に感じていた。

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