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喪失、そして再生~どこか遠くへ~My Godness完結編

第2章 ♣海の女神♣

「禁漁日、ですか。時化(しけ)でもないのに、漁を休むんですか? 予報では明日もまた上天気だと言ってましたよ」
「明日は海神(わだつみ)の祭だ。漁に出てはならん」
 網元は事もなげに言う。
「海神の祭? 初めて聞きます」
「まあ、他所者が知らんのは仕方なかろう」
 網元はつるりと無精髭がまばらに生えた顎を撫でた。そこでまた手酌で注ごうとして、銚子が空なのに気づいたようである。
「眞矢歌、眞矢歌。全く、気のつかんヤツだ」
 と、この網元は自分の娘にでも容赦がない。
 声高に呼んでいると、眞矢歌がやってきた。
「おい、酒がなくなってるぞ。あと、悠理にも持ってきてやってくれ」
「いや、俺は良いですから」
 慌てて手を振るも、網元はかなり酒が回ってきたらしく、有無を言わせない勢いだ。
「お父さんったら。無理強いは駄目よ」
 眞矢歌が父親を窘める口調はまるで長年連れ添った古女房のようである。そういえば、この家にはおかみさんがいない。晃三の歳であれば、まだ妻が健在だとしても不思議はない。既に亡くなったのだとも考えられたが、いかにしても酒の席で訊ねられるものではなかった。
 眞矢歌は一旦厨房に引き返し、今度は盆に銚子を二つ、枝豆のゆがいたのを透き通ったガラスの器に盛ってきた。更に悠理の分らしい杯もある。
「まあ、飲め。飲めんクチではないはずだ」
 網元は眼許を紅く染め、悠理の杯に並々と注いだ。
「俺がイケるってこと、判るんですか、親方」
 ひと息に煽り、悠理が訊ねる。
「だから言っただろうが、その人の生き方は表に滲み出ると」
 悠理は押し黙った。自分の母親のような歳の女たちに日毎、媚を売り、身体さえも売り渡していた、かつての自分。その薄汚れた自分を、この年老いた無骨な漁師はちゃんと見抜いているというのか。
 そう思った刹那、悠理はこの男の前から消え去りたい衝動に耐えた。これほど自分を、自分が歩いてきた道を恥ずかしいと感じたのは生まれて初めてであった。
 網元は眼尻を染めたまま、相変わらず手酌で汲んでは干している。

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