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天空(そら)に咲く花~あのひとに届くまで~

第1章 第一話〝招き猫〟―旅立ち―

《旅立ち》

 その朝、掃除を済ませたら部屋に来るようにと伯父から言い渡され、弥栄(やえ)は何事かと訝しんだ。弥栄の伯父弐兵衛は江戸は日本橋で数代前から続く紙問屋〝伊予屋〟を営んでいる。もっとも、弐兵衛は先代の息子というわけではなく、やはり同業の〝紙絃(かみげん)〟から聟にきた身であった。
 弥栄がこの伯父の許で厄介になっているのには、それ相応の理由がある。弥栄は元々は紙絃の一人娘として生まれ育った。紙絃は町人(ちようにんまち)町の目抜き通りに相当の構えを誇る老舗にして大店であり、堅い商売をしていると評判の伊予屋よりも更に手広く商いをしている店であった。
 ところが、である。この紙絃が突如として店じまいせざるを得ない仕儀となった。その原因を作ったのは、他ならぬ当代の主人絃七(げんしち)である。紙絃の主人はその屋号からも判るとおり、代々〝絃七〟を名乗るのが通例となっている。弥栄の父は数えて九代目になる絃七であり、弥栄は生まれたときから乳母日傘で何不自由なく育てられた。
 母のおさきは弥栄がまだ物心つくかつかぬ前に亡くなった。若くて男ぶりも良い父にはその後、後添いの話が幾度もあったようだが、父はそんな話には見向きもせずに商売に励んだ。少なくとも、弥栄はそう信じていた。よもや縁談にけぶりほどの関心も示さなかった父が、吉原の太夫と深間になっているなぞとは想像だにしていなかったのだ。
 絃七は二年前の冬の夜、何を考えたか、突如として吉原の本籬〝雪月楼〟の花魁白妙と心中を図り亡くなった。当時、絃七は三十七、相手の白妙は十九歳であった。二人の心中には、どうやら旗本の若殿さまが関係していたらしい。

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