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月下にひらく華~切なさの向こう側~第6話【漢陽の春】

第2章 縁(えにし)~もう一つの出逢い~

 香花は小首を傾げ、再び燭台を前方高くかざした。扉の前に揃えて置いてある靴を突っかけると、そろりと一歩闇の中に足を踏み出す。その靴は鮮やかな真紅と爪先の部分が薄桃色の絹製だ。脇に精緻な撫子の刺繍が入っており、香花のお気に入りである。崔家の屋敷に上がるに際し、叔母が真新しい晴れ着と共に誂えてくれたものだ。
 カサリ、また、小さな物音が夜陰に響く。今度のは耳の良い香花でさえ、聞き逃してしまうほどの音だ。
「これは―脚音?」
 香花は身の凍る想いだった。誰かがこの夜更けに庭を歩いている。しかし、今宵は月もない闇夜だ。本来なら、十六夜の月が浮かんでいるはずだが、生憎と夕刻に雨が上がったばかりで、夜空は依然として厚い雲に閉ざされている。
 一体、どこの物好きがこんな月もない夜に庭をそぞろ歩こうなどと考えるだろうか。
 大体、この屋敷にそんな酔狂な人間はいない。主人の明善はもとより、下男のウィギル、女中のソンジョルもとうに眠り込んでいる時刻だ。幼い二人の子どもたちは尚更だろう。
 それでは、屋敷外の者が?
 香花の疑問は当然であった。後になって、香花はその時、自分の取った行動をどれほど後悔したことか。だが、そのときは、考えるより身体が自然に動いていた。
 かすかな脚音が聞こえてくる。ひたひたと闇の底を這う怪しい物音を追いかけ、香花は庭を歩き出していた。
 夜半、勝手に屋敷に入り込んだ狼藉者は並の人間であれば聞き取れないほどの忍び足で歩いている―。
 これはただ事ではないと咄嗟に思った。
 自分などが一人で追跡するよりは、誰かを呼んできた方が良い。いっそのこと明善を起こして―と香花の思考は忙しなく回転する。

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