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記憶売りのヤシチ

第1章 記憶の飴

言われてみれば、家のことも、友達のことも思い出せない。学校に通っていた気がするけれど、それに関してもいっさい…。

「…待ってよ」
必死に絞り出した声は、少し震えていた。

「返してよ、私の記憶…!返してっ!」
自分の名前すら覚えていないなんて。…このまま帰るわけにはいかない。そしてこのまま行かせはしないと、ヤシチの背中に必死にすがった。

「別にいいんじゃないかな、そのままでも。その代わりに過去を取り戻せたんだからさ」

確かに、昔の記憶もかけがえのない大切なものだ。思い出せたのはうれしい。けれど、他の記憶だって大切。引き換えだなんて聞いてない。それは話が別だ。

「それに、なくてもさほど困らないから簡単に消えてしまったのかもしれないよ。名前なんて新しく考えればいいし」

「…その手には乗らないわ。名前は大事なものだし、他の記憶も、きっとどれも私にとってなくしてはならないもののはずよ。絶対に取り戻すわ」
私が力を込めて言うと、ヤシチは鼻で笑った。

「…そう。じゃあ自力で取り戻してみなよ」
あきれたように吐息混じりに言い、ヤシチはこつぜんと姿を消した。つかんでいた袖の感触は、あっけなく失っていた。

「……!?どこへ消えたの…!?」
辺りを見回すが、どこにもヤシチの姿はない。

薄暗い廊下を見る。もう、この屋敷を片っ端から探していくしかないようだ。迷っている暇はない。何としても取り戻さなければならないのだから。…私の記憶を。

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