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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第1章 第一話 春に降る雪  其の壱

     《其の壱》

 その、ほんのひと刹那の光景を眼にした時、美空(みく)は不思議な既視感に囚われた。奇妙な、浮遊感にも似た束の間の意識の空白、次いで流れ込んできた温かなものは、どこか過ぎ去った昔を愛おしむような、懐かしむような感情に似ていた。
 郷愁とでも形容すれば良いのだろうか。はるかな過去に確かに体感した出来事、もしくは、めぐり逢ったはずの人と思いもかけぬときに再び出逢ったような、そんな感覚だった。
 穏やかな晩秋の陽差しが乾いた地面を白く浮き上がらせ、その場所だけが周囲の喧噪や物音と一線を画し、まるで芝居の一幕を見るかのような別世界を形作っている。降り注ぐ陽光が作る光の輪の中心に座った男は、地面に腰を下ろし、うつむいた恰好で何事か思案に耽っているように見えた。
 自分でさえ気付かぬ間に、美空は吸い寄せられるように男に近付いていた。男を取り巻く狭い空間はあまりにも静謐すぎて、声をかけるのすらはばかられるような雰囲気がある。だからというわけでもなかったのだが、いつしか美空は物想いに沈む男の横顔に見入っていた。
「―もし」
 どれほどの刻が経ったのか、恐らくは自分で感じているよりはたいした刻ではなかったのだろうが、美空には随分と長い間、刻が止まっていたように思えた。
 そう、まさしく、男のひと言が合図となり、美空の周囲の刻が再びゆっくりと動き出したのである。
 突然、声をかけられた美空は愕いて顔を上げた。
「何かお気に入りのものがございますか」
 穏やかな声音で問いかけられ、美空は一瞬固まった。
 どうやら、男は小間物の行商をしているようだった。町中の往来の端に控えめに陣取り、荷をひろげている。
 美空は、そんなことすら確かめもせず、無意識の中に男に近寄っていたのだ。我ながら、あまりにも大胆というか、はしたないことのように思え、美空は赤面した。咄嗟にせわしなく視線を巡らせていると、ふっと朱塗りの櫛が眼に入った。
 小さな、美空の手のひらにすっぽりと納まるほどの大きさだが、白い水仙が蒔絵で描き出されて、若々しい華やぎを添えている。

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