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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第9章 第三話〝細氷(さいひょう)〟・其の壱

    《其の壱》 

 美空は良人の広い背中を見つめ、小さな吐息を一つ零す。良人孝俊はこの肩にどれだけ重い物を背負っているのだろう。その重さ、責任感はたとえ常に彼の傍にいる美空にだとて計り知れぬものがあるはずだ。一つの藩の、尾張という国のゆく方が孝俊のこの背中にかかっている。孝俊が美空に政の話をすることは滅多とないけれど、美空は日々、良人が抱えるあまたの問題の大変さを思う度、自分の方が胸苦しいような想いに囚われるのだった。
 まだ藩主となって三年と二ヵ月余り、孝俊の向き合わねばならぬ問題は藩内にも山積している。加えて、徳川将軍家と最も近しい御三家筆頭の当主ともなれば、対外的な立場も重く、自ずと難しいものになってくる。まさに、孝俊は現在、内にも外にも並々ならぬ気を配らねばならない状況にある。
「―殿」
 美空はやや声を高くして、良人を呼ぶ。
 もうこれで何度目かになるのだけれど、孝俊はいっかな気付く風もなく、ただひたすら庭を見つめている。以前は孝俊が美空の許を日中に訪れることなど滅多となかったが、最近はふっと思い出したようにやって来ることがある。
 美空の部屋を訪れ、特に何をするわけでもない。ただ障子戸を開け放し、庭先に陣取ったまま庭を眺めているだけだ。
 今日もまた昼過ぎにふらりと訪ねてきた孝俊は、こうしてもう一刻余りもの間、たった一人で庭と対峙している。
 こんな時、美空は良人の好きなようにさせておくことにしていた。藩主になったばかりの頃は表でひたすら政に没頭していた彼が今になってしばしば奥向きを訪れ、こうして庭を眺めるともなしに眺めている―、そのことは他ならぬ孝俊の心がほんのわずかでも休息を求めているのではないかと考えるからだ。
 果たして、孝俊自身がそのことに気付いているのかどうかは判らないが、最近の孝俊を見ていると、漠然とした不安を感じることが再々ある。妻であればこそ、良人がその立場ゆえにのっぴきならぬ状況にあり、その心が追いつめられているのではないか、そんな予感めいたものを察知していたのだ。
「殿」
 美空がもう一度呼ぶと、漸く孝俊がゆるゆると振り向いた。

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