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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第2章 其の弐

     《其の弐》

 その日、美空は徳平店からもほど近い随明寺に詣でた。随明寺は黄檗宗の名刹で、開基は浄徳大和尚。京都の宇治に万福寺を開いた黄檗宗の開祖隠元隆琦の高弟の一人として知られる。
 随明寺の境内地は広大だ。通称〝息継坂〟と呼ばれる勾配の急な長い石段を昇ると、山門に至る。ここから真っすぐにゆくとまず金堂、三重ノ塔が眼に入る。更に進んでゆけば、こぢんまりとした御堂があり、このお堂は小さな朱の鳥居をくぐり、百度石を配した先にひっそりと佇んでいる。
 両開きになった格子状の正面扉には、あまたの絵馬がかけられている。その様は圧巻とさえいえ、何かそれらの絵馬を奉納した人々の切なる願いや祈りが無言の強大な力となって、その正面に立つ者を威圧してくるかのようだ。
 この御堂が絵馬堂と呼ばれる由縁である。絵馬堂を横眼に見ながら奥に進めば、境内地でも最奥部となる奥ノ院、その傍らには〝大池〟と呼びならわされる巨大な池が満々と澄んだ水を湛えて横たわっている。大池のほとりには桜や楓が幾本も植えられ、春は桜、秋は紅葉と訪れる者の眼を存分に愉しませてくれた。
 殊に春には大池周辺が薄紅色の霧に包まれたようにさえ見え、江戸の桜名所として名所図絵にも載るほどの人気であった。大池は随明寺が建立された折に造られた人工の池であるが、到底、人の作ったものとは思えないほど巨大であり、初夏には薄紅色の睡蓮が水面を埋め尽くして咲き誇り、さながらその様はこの世の極楽浄土はかくやと思わせるほど見事なものだ。
 だが、春の桜の時季と月に一度、浄徳大和尚の命日に催される縁日市を除けば、広い境内は深閑として詣でる者の姿も殆ど見られない。
 その日は、いよいよ明日から師走に入ろうかという秋も終わりの日であった。随明寺は桜花だけでなく紅葉の名所としても知られているが、春と違い、秋は紅葉狩りを愉しむ参詣客もまばらで、その分ゆっくりと紅葉を堪能できる。

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