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激愛~たとえ実らない恋だとしても~

第3章 其の参

     《其の参》

 その年も終わり、新しい年を迎えた正月早々、美空と孝太郎の祝言が徳平店で簡素にとり行われた。孝太郎はそのまま徳平店で暮らすことになり、四畳半ひと間の裏店で二人の新婚生活が始まった。
 しかし、孝太郎は依然として美空に何も話そうとはしなかった。その日に起こった他愛ない出来事ならさも面白おかしく話して聞かせるのに、肝心の自らの素性については一切語ろうとしない。
 が、この頃には、美空は孝太郎の正体について詮索する気もなくなっていたし、むしろ、そんなことは些末なことだと思うようになっていた。晴れて世にも許された夫婦となり、心に余裕ができたせいもあるかもしれない。
 けれど、それよりもまず、美空自身が良人さえ―惚れた男が傍にいてくれるだけで良いのだと心から思えるようになったことが大きな原因だろう。
 孝太郎と暮らすようになって、美空は初めて苦楽を分かち合う人のいることの幸せを知ったのだ。孝太郎という存在を得た今、昔のように〝一人でも大丈夫〟などとは口が裂けても言えそうにない。
 そんな中で、美空は自分の身体の変調を知る。その頃、孝太郎と所帯を持ってからはや三月(みつき)が過ぎようとしていた。
 長く厳しかった冬もそろそろ終わりを告げ、江戸のあちこちで春の脚音が聞こえ始めている。梅の蕾が膨らみ、日毎に透明だった陽差しに温かさが少しずつ戻ってきている弥生の初めのことだった。
 孝太郎は毎朝、小間物の行商に出かけてゆく。商う品々は日本橋のさる店から直接仕入れるのだというが、その店の名前は知らない。
 戻ってくるのは大抵は夕刻で、良人の留守中、美空は長屋で仕立物の内職に精を出した。陽暮れ刻に戻ってきた孝太郎と共に夕餉を取る。孝太郎は町に出ている間に出くわしたこと、見聞きしたものについて教えてはくれたが、自分の商売については殆ど話すことはなかった。
 美空は良人の家族や家についてと同様、孝太郎が喋りたがらないことを無理に訊き出そうとはせず、夫婦二人だけの暮らしは慎ましくも穏やかで満ち足りたものだった。
 江戸も次第に春めいてくるそんなある朝のこと、美空は長屋の住人たちが使う共同井戸で洗濯をしていた。日毎に春めいているとはいえ、まだ井戸の水は冷たい。

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