白虹(龍虹記外伝)~その後の道継と嘉瑛~
第1章 夢
しかし、通継は、国境の守りをあっさりと解き、少し離れたこの平原地帯まで全軍を退却させた。
「嘉瑛はなかなか侮り難き男ぞ。何しろ、戦神と謳われ、鬼神のごとき戦いぶりをする。いよいよというときに備えて、そちも十分に休養を取っておくように」
奇妙な懐かしさの入り混じったほろ苦い感情を呼び起こすその男の名を、通継は敢えて平然と口にしてみせる。
「殿が何に拘っておいでなのか」
重吾郎が言いかけ、流石に言葉が過ぎたと思ったのか、口調を改めた。
「私には殿のお心までは拝察致しかねますが」
そこで重吾郎がふいに口をつぐむ。
言い淀む従者に、通継はふわりと掴みどころのない微笑で応えた。
「明日の戦いは、どう見ても勝算は向こうにある。良くみても、五分五分といったところか。さりながら、重吾、戦というものは必ずしも兵の数の多さだけで勝敗が決まるというものでもなかろう。敵方は端(はな)から、こちらを手勢少なしと見て侮っておる。そこを突いて我らが死力を尽くせば、また、活路も開くというものではないか?」
重吾郎からはそれに対して何の応(いら)えもなかった。通継はそのまま仮の寝所に戻り、褥に身を横たえた。一刻余り後、再び眠れぬままに外に出てみた時、既に重吾郎の姿はどこにもなく、ただ十六夜の月が漆黒の空を飾っているだけであった。
主の命に忠実な従者のことゆえ、今度こそさほど遠くないどこかで仮眠を取っているのだろう。
深夜、昼間の疲れから他の兵たちも皆寝静まり、長戸氏の陣中は森閑としている。明日には決戦を迎えるという戦いの渦中にいるとは、俄には信じがたいほどの静けさだ。いつしか霧が出てきたのか、月の投げかける淡い光が白い靄の向こうに隠れ始めていた。
まるで、先刻までの夢の続きを見ているような錯覚に囚われる。今、自分が身を置いているこの世界が現のものか、夢幻なのか覚束なくなりそうで、通継はあてどない我が身を必死で保とうとした。
と、通継は突如として眼を瞠った。
紗をかけたように見える白い幕越しに、天空高く昇った月の放つ光がくっきりと弧を描いていた。まさに秋の夜空にかかる白い橋。
「嘉瑛はなかなか侮り難き男ぞ。何しろ、戦神と謳われ、鬼神のごとき戦いぶりをする。いよいよというときに備えて、そちも十分に休養を取っておくように」
奇妙な懐かしさの入り混じったほろ苦い感情を呼び起こすその男の名を、通継は敢えて平然と口にしてみせる。
「殿が何に拘っておいでなのか」
重吾郎が言いかけ、流石に言葉が過ぎたと思ったのか、口調を改めた。
「私には殿のお心までは拝察致しかねますが」
そこで重吾郎がふいに口をつぐむ。
言い淀む従者に、通継はふわりと掴みどころのない微笑で応えた。
「明日の戦いは、どう見ても勝算は向こうにある。良くみても、五分五分といったところか。さりながら、重吾、戦というものは必ずしも兵の数の多さだけで勝敗が決まるというものでもなかろう。敵方は端(はな)から、こちらを手勢少なしと見て侮っておる。そこを突いて我らが死力を尽くせば、また、活路も開くというものではないか?」
重吾郎からはそれに対して何の応(いら)えもなかった。通継はそのまま仮の寝所に戻り、褥に身を横たえた。一刻余り後、再び眠れぬままに外に出てみた時、既に重吾郎の姿はどこにもなく、ただ十六夜の月が漆黒の空を飾っているだけであった。
主の命に忠実な従者のことゆえ、今度こそさほど遠くないどこかで仮眠を取っているのだろう。
深夜、昼間の疲れから他の兵たちも皆寝静まり、長戸氏の陣中は森閑としている。明日には決戦を迎えるという戦いの渦中にいるとは、俄には信じがたいほどの静けさだ。いつしか霧が出てきたのか、月の投げかける淡い光が白い靄の向こうに隠れ始めていた。
まるで、先刻までの夢の続きを見ているような錯覚に囚われる。今、自分が身を置いているこの世界が現のものか、夢幻なのか覚束なくなりそうで、通継はあてどない我が身を必死で保とうとした。
と、通継は突如として眼を瞠った。
紗をかけたように見える白い幕越しに、天空高く昇った月の放つ光がくっきりと弧を描いていた。まさに秋の夜空にかかる白い橋。