白虹(龍虹記外伝)~その後の道継と嘉瑛~
第1章 夢
通継は視線を上向け、ふと空を振り仰いだ。円い月が淡い光を地上に投げかけている。そういえば、今日は十六夜であったか、と、通継はまたしても過去の幻影に意識を呑まれそうになる。
そうだ、〝行かないでくれ〟と嘉瑛が縋るような弱々しいまなざしを向けたあの夜も確か十六夜の月が紫紺の空に掛かっていた。あの頃の自分はまるきり童であった。本当の己れの想いに気付きもせず、相手の烈しすぎる執着の裏に潜む心を見ようともせずに。
失って初めて、手放したものの価値を知ることがある、大切なことに気付くときがある。二十三歳になった自分は、多分、あの頃から既に己れの胸の内に少しずつ芽生えていたであろう想いの正体を知っている。それは恐らく―。
通継の思考はそこで途切れた。
「殿」
我に返り振り向くと、背後に黒い影がうずくまっていた。
「ああ、重(じゆう)吾郎(ごろう)か」
通継は呟くと、まじまじと脚許に跪く男を見つめる。
「いかがなされましたか? 何か随分とうなされておいでのようにござりましたが」
重吾郎は常に通継の傍から離れることはない。いつも彼の背後に影のように寄り添い、危ういときには自らの身を挺して主を守ろうとする忠臣だ。この男こそ、かつて木檜城の地下牢で背中に灼印を捺され、高熱に喘いで生死の淵をさまよった通継を介抱し助けてくれた人物であった。
当時、重吾郎は嘉瑛に仕える足軽にすぎなかった。妹万寿姫が自害して果てたことをいち早く教えてくれたのもこの男であり、その際、ひしと通継を抱きしめ、耳許で囁いた。
―若、たとえ何があっても耐え忍ぶことだ。生きてさえいれば、いずれ運も開けよう。もし若が長戸氏再興の旗を挙げるときには必ずや俺も若の許に馳せ参じようぞ。
その言葉どおり、重吾郎は三年前の挙兵の折には真っ先に駆けつけてくれた。
重吾郎の家は軽輩ではあるが、代々、木檜氏に仕えてきた家柄である。それを、重吾郎は家も家族も何もかも、故国をも棄てて出奔してきた。
重吾郎のなした行為はいわば、主家に対する裏切りともいえる。木檜に残してきた家族の安否を通継が気遣うと、重吾郎は毅然として言い放った。
―俺には守るべき女房も子もおらぬ。気遣いは無用だ。
そうだ、〝行かないでくれ〟と嘉瑛が縋るような弱々しいまなざしを向けたあの夜も確か十六夜の月が紫紺の空に掛かっていた。あの頃の自分はまるきり童であった。本当の己れの想いに気付きもせず、相手の烈しすぎる執着の裏に潜む心を見ようともせずに。
失って初めて、手放したものの価値を知ることがある、大切なことに気付くときがある。二十三歳になった自分は、多分、あの頃から既に己れの胸の内に少しずつ芽生えていたであろう想いの正体を知っている。それは恐らく―。
通継の思考はそこで途切れた。
「殿」
我に返り振り向くと、背後に黒い影がうずくまっていた。
「ああ、重(じゆう)吾郎(ごろう)か」
通継は呟くと、まじまじと脚許に跪く男を見つめる。
「いかがなされましたか? 何か随分とうなされておいでのようにござりましたが」
重吾郎は常に通継の傍から離れることはない。いつも彼の背後に影のように寄り添い、危ういときには自らの身を挺して主を守ろうとする忠臣だ。この男こそ、かつて木檜城の地下牢で背中に灼印を捺され、高熱に喘いで生死の淵をさまよった通継を介抱し助けてくれた人物であった。
当時、重吾郎は嘉瑛に仕える足軽にすぎなかった。妹万寿姫が自害して果てたことをいち早く教えてくれたのもこの男であり、その際、ひしと通継を抱きしめ、耳許で囁いた。
―若、たとえ何があっても耐え忍ぶことだ。生きてさえいれば、いずれ運も開けよう。もし若が長戸氏再興の旗を挙げるときには必ずや俺も若の許に馳せ参じようぞ。
その言葉どおり、重吾郎は三年前の挙兵の折には真っ先に駆けつけてくれた。
重吾郎の家は軽輩ではあるが、代々、木檜氏に仕えてきた家柄である。それを、重吾郎は家も家族も何もかも、故国をも棄てて出奔してきた。
重吾郎のなした行為はいわば、主家に対する裏切りともいえる。木檜に残してきた家族の安否を通継が気遣うと、重吾郎は毅然として言い放った。
―俺には守るべき女房も子もおらぬ。気遣いは無用だ。