
胡蝶の夢~私の最愛~⑪【夢路・ゆめじ】
第1章 《槇野のお転婆姫》
「いや、私までが落ち込んだ様を見せては、そなたが余計に気に病んではならぬと思うたのじゃ」
「さようでございましょうとも、姫さまはおん小さい砌からたいそうお心優しくておわしましたから」
時橋がまたわざとらしく―もっとも、当人は至って真剣だ―泣き崩れる。泉水は内心笑い出したいのをこらえた。自分一途に仕えてくれる忠実無比の乳母だが、たった一つの難点は、言うことなすことすべてが感情表現豊かすぎて、まるで舞台の上の喜劇役者の芝居を見ているようだということか。
幼くして母を失った泉水を実の母のように愛情深く育ててくれた時橋への恩を忘れられるものではない。だが、時橋を見ていると、泉水はまるで世間知らずの母親を守ってやらねばならぬ、しっかり者の娘に似た心境になる。むろん、当の時橋は我が生命より大切な姫を果敢に守っているつもりで、大真面目である。
が、その行動の、どこか滑稽で笑えてしまうところに心慰められる―と言ってはまた、時橋は“私がこれほど心よりご案じ申し上げておりますのに”と大袈裟に泣き崩れるに相違ない。
泉水は相変わらず大仰に嘆く乳母を、吐息をついて眺めていた。どうやら、今日はもう少しこの乳母の愚痴に付き合ってやるしかなさそうだ。
《巻の弐―運命の悪戯―》
それから数日を経たある日。
江戸の町は桜の季節を迎えていた。
上野の寛永寺、随明寺を初め、江戸の至る所で桜が満開となり、遠方から見ると、その界隈は薄桃色の靄が煙ったように見える。
その日の昼下がり、泉水は江戸の町外れを一人で歩いていた。時橋の眼を何とかごまかして、漸く屋敷を抜け出すことに成功したのだ。今頃、あの忠実な乳母は卒倒せんばかりに愕き、そして立腹しているに相違ない。
―ごめんね、時橋。
心の中で詫びながらも、泉水は自分が悪いことをしたのだという自覚は実は殆どない。
槇野の屋敷にいる時分もこうやって時々時橋の眼をかすめては外にお忍びで出ていたのだが、見つかる度に大目玉を喰らっていた。
流石に嫁いでからはまだ一度も脱出はしていないけれど、そろそろずっと屋敷内に閉じこもっているのにも飽きてきたのだ。
―良人に放っておかれるというのも、なかなか悪くないのよね。
「さようでございましょうとも、姫さまはおん小さい砌からたいそうお心優しくておわしましたから」
時橋がまたわざとらしく―もっとも、当人は至って真剣だ―泣き崩れる。泉水は内心笑い出したいのをこらえた。自分一途に仕えてくれる忠実無比の乳母だが、たった一つの難点は、言うことなすことすべてが感情表現豊かすぎて、まるで舞台の上の喜劇役者の芝居を見ているようだということか。
幼くして母を失った泉水を実の母のように愛情深く育ててくれた時橋への恩を忘れられるものではない。だが、時橋を見ていると、泉水はまるで世間知らずの母親を守ってやらねばならぬ、しっかり者の娘に似た心境になる。むろん、当の時橋は我が生命より大切な姫を果敢に守っているつもりで、大真面目である。
が、その行動の、どこか滑稽で笑えてしまうところに心慰められる―と言ってはまた、時橋は“私がこれほど心よりご案じ申し上げておりますのに”と大袈裟に泣き崩れるに相違ない。
泉水は相変わらず大仰に嘆く乳母を、吐息をついて眺めていた。どうやら、今日はもう少しこの乳母の愚痴に付き合ってやるしかなさそうだ。
《巻の弐―運命の悪戯―》
それから数日を経たある日。
江戸の町は桜の季節を迎えていた。
上野の寛永寺、随明寺を初め、江戸の至る所で桜が満開となり、遠方から見ると、その界隈は薄桃色の靄が煙ったように見える。
その日の昼下がり、泉水は江戸の町外れを一人で歩いていた。時橋の眼を何とかごまかして、漸く屋敷を抜け出すことに成功したのだ。今頃、あの忠実な乳母は卒倒せんばかりに愕き、そして立腹しているに相違ない。
―ごめんね、時橋。
心の中で詫びながらも、泉水は自分が悪いことをしたのだという自覚は実は殆どない。
槇野の屋敷にいる時分もこうやって時々時橋の眼をかすめては外にお忍びで出ていたのだが、見つかる度に大目玉を喰らっていた。
流石に嫁いでからはまだ一度も脱出はしていないけれど、そろそろずっと屋敷内に閉じこもっているのにも飽きてきたのだ。
―良人に放っておかれるというのも、なかなか悪くないのよね。
